「小金牧」の版間の差分

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中野牧(なかのまき)は現在の松戸・柏・鎌ケ谷・白井の各市におよび、初富・五香・六実と三分して開墾された事、一本椚牧を吸収した事が示すように、享保の縮小後も、小金牧中、最大の牧であった。縮小前の牧の範囲については、『宮本2012』<ref name="miyamoto"/>にあるが、図によって初期の牧の範囲には多少の相違があり、初期の範囲の厳密な特定の難しさを示す。
 
幕府は中野牧の馬を将軍の乗馬に用い、将軍が鹿狩を行い、幕末にフランスから将軍に贈られた[[ナポレオン三世の馬]]を飼育するほど、中野牧を最重視した。享保以降、金ヶ作陣屋が置かれ、下野牧とともに幕府直轄となった(後述)。松戸市小金原は中野牧のごく一部である。将軍の鹿狩のため、国立公文書館<ref name="naj"/>の『大狩盛典』のほか、国立国会図書館<ref name="ndlr"/>、国立歴史民俗博物館等に多の資料がある。
 
『旧事考』に、縦は東で3里、西で2里、横1里、牡牝約300、捕駒の地が中澤、別に、俗に日暮という幕府騎乗の牧があり、牡牝約300、捕駒の地は金ヶ作とある。
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1765(明和2)年、『房総叢書』収録『金ケさく紀行』は、牧監の命で牧馬払下げの証明に関し金ヶ作を訪れた記録で、船橋から市川大野・大町新田を経て金ヶ作に至る事、牧師が日暮に住む事等が記されている。
 
1805(文化2)年、秋里籬島『木曽路名所図会』<ref>埼玉県立図書館蔵、[https://www.lib.pref.saitama.jp/ 埼玉県立図書館]「デジタルライブラリー(貴重書デジタル画像)・貴重書」より選択、五その1絵図2</ref>に鎌ヶ谷大仏と、近くの野馬土手とも見られる似た土塁と馬がある。
 
1814(文化11)年、『江戸叢書』<ref name="ndl"/>収録の釈敬順『十方庵遊歴雑記 江戸惣鹿子名所大全』<ref>巻の中参拾四</ref>に、木下の路筋は鎌ヶ谷より白井までのニ里余の間、皆小金原の続きで、馬が何匹もいて、広い野のため、道がいくつあるか知らない旨記され、『木曽路名所図会』とよく一致する。