「日吉町吉利」の版間の差分

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[[嘉暦]]2年([[1327年]])の「島津道恵譲状」(島津家文書掲載)によれば吉利の一部を[[島津宗久 (伊作家)|島津宗久]]が次男の島津久氏に与えており{{Sfn|角川日本地名大辞典編纂委員会|1983|p=654-655}}、その際に吉利名の境界線については中分状を守るように指示していると記載されている{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=302}}。
 
南北朝の争乱が起こると南朝方の[[伊集院忠国]]が谷山城(現在の[[鹿児島市]][[下福元町]])から挙兵し、伊集院忠国の軍は伊作島津家の支配下にあった吉利の野崎城と若松城を陥落し、その後吉利は伊集院忠国の勢力下となった{{Sfn|日吉町郷土誌編さん委員会|1983|page=9-10}}。
 
==== 室町時代 ====