「平家物語」の版間の差分

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『'''平家物語'''』(へいけものがたり)は、[[日本]]の[[鎌倉時代]]に成立したとされる[[軍記物語]]で、[[平家]]の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いた。
 
[[保元の乱]]および[[平治の乱]]に勝利した平家と敗れた[[源氏|源家]]の対照的な姿、その後の[[治承・寿永の乱|源平の戦い]]から平家の滅亡、そして没落しはじめた[[平安貴族]]と新たに台頭した[[武士]]たちの人間模様などを描いた。「[[祇園精舎]]の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。
 
== 概要 ==
[[ファイル:Battle scenes from the Tale of Heike (Heike Monogatari) - Google Art Project.jpg|300px|thumb|平家物語]]
 
[[保元の乱]]および[[平治の乱]]に勝利した平家と敗れた[[源氏|源家]]の対照的な姿、その後の[[治承・寿永の乱|源平の戦い]]から平家の滅亡、そして没落しはじめた[[平安貴族]]と新たに台頭した[[武士]]たちの人間模様などを描いた。「[[祇園精舎]]の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。
=== 成り立ち ===
 
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『[[保元物語]]』や『[[平治物語]]』と同様に、合戦が本格化した『'''治承物語'''』(じしょうものがたり)と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。正確な成立時期は分かっていないものの、[[仁治]]元年([[1240年]])に[[藤原定家]]によって書写された『[[兵範記]]』([[平信範]]の日記)の[[紙背文書]]に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、『治承物語』が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、[[延慶 (日本)|延慶]]2年([[1309年]])以前には成立していたものと考えられている。また文中に
=== 成り立ち  ===
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『[[保元物語]]』や『[[平治物語]]』と同様に、合戦が本格化した『'''治承物語'''』(じしょうものがたり)と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。
 
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『[[保元物語]]』や『[[平治物語]]』と同様に、合戦が本格化した『'''治承物語'''』(じしょうものがたり)と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。正確な成立時期は分かっていないものの、[[仁治]]元年([[1240年]])に[[藤原定家]]によって書写された『[[兵範記]]』([[平信範]]の日記)の[[紙背文書]]に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、『治承物語』が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、[[延慶 (日本)|延慶]]2年([[1309年]])以前には成立していたものと考えられている。また文中に
 
=== 作者 ===
作者については古来多くの説がある。現存最古の記述は鎌倉末期の『[[徒然草]]』([[吉田兼好]]作)で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする。
 
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」平家物語は雑魚
 
その他にも、生仏が[[東国]]出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の[[琵琶法師]]との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。
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現存している諸本は、次の二系統に分けられる。
 
* 盲目の僧として知られる琵琶法師([[当道座]]に属する盲人音楽家。[[検校]]など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた'''語り本'''(語り系、当道系とも)の系統に属するもの
* 読み物として増補された'''読み本'''(増補系、非当道系とも)系統のもの
 
=== 語り本系 ===
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大英博物館には1592(文禄1)年にポルトガル式ローマ字で書かれた天草版「平家物語」が存在する。これは、「日本の言葉と歴史を習い知らんと欲する人のために」書かれたとその扉絵に記されている。
 
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== 刊行本 ==
現在入手しやすい版本。