「アルバート・R・ブロッコリ」の版間の差分

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[[1950年代]]の初めに優遇税制を利用して[[イギリス]]に渡り、アーヴィン・アレンと組んで、独立系の制作会社ウォーリック・フィルムズを設立する。その後、[[コロンビア映画]]と共同で、『赤いテント』『零下の地獄』などアラン・ラッド主演の冒険映画を制作。
 
[[1961年]]に[[ハリー・サルツマン]]とともに[[イーオン・プロダクションズ]]を設立。[[イアン・フレミング]]の007シリーズの映画化権を所有していたサルツマンと、007の映画を共同制作するために設立したプロダクションだった。その後[[ユナイテッド・アーティスツ]]から出資を受け協力の下、第一作『[[007 ドクター・ノオ]]』を成功させる。その後、生涯に渡り007シリーズのプロデューサーを務めた。第十作『[[007 私を愛したスパイ]]』からは、サルツマンがイオン・プロを離れたこともあり第十三作『[[007 オクトパシー]]』までは単独で、第十四作『[[007 美しき獲物たち]]』からは継子の[[マイケル・G・ウィルソン]]と共同でプロデューサーを担当した。
 
1977年に、[[ロンドン]]から[[ビバリーヒルズ]]へと移住し、1981年に映画界への功績を認められ[[アービング・G・タルバーグ賞]]を受賞。プロデューサーとしてクレジットされた最後の作品は『[[007 消されたライセンス]]』。次作『[[007 ゴールデンアイ]]』は存命中の作品だったがプロデュース業からは退き、ウィルソンと娘の[[バーバラ・ブロッコリ]]にプロデューサーの座を譲った。逝去後の『[[007 トゥモロー・ネバー・ダイ]]』のエンディングに、追悼の一文が挿入されている。