「マグナ・カルタ」の版間の差分

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== 貴族条項 ==
1215年1月、ジョン王はロンドンで反抗勢力と対話する姿勢を見せつつ、[[教皇庁]]に仲裁を求めた。教会への臣従を示していたジョン王の求めに応じてインノケンティウス3世は、ジョン王の裁決に従うよう貴族達に言い渡した。
1215年である。1月6日ロンドンで、4月26日[[ノーサンプトン]]で、貴族はジョン王と会談した。この間に両派は[[教皇庁]]に訴えることができた。貴族はジョン王の裁決に従うよう言い渡された。そしてやはり、ノーサンプトンでの交渉は決裂したのである。[[5月5日]]ジョン王側で貴族の怒りが爆発した(臣従誓約の破棄)。1週間後、ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発した。貴族はジョン王の廃位を求めて結託した。5月17日[[ロンドン]]市が同調し、貴族を迎え入れた。ジョン王はロンドンの西にある[[ウィンザー城]]に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター([[:en:Robert Fitzwalter|Robert Fitzwalter]])を長とする25人の貴族が代表者として選出されることが盛り込まれた(いわゆる保証条項の一部)。6月10日から島のように開けたラニミードに天幕を張って最終折衝が行われ、19日にマグナ・カルタという妥協が成立した。マグナ・カルタは御料林について、各地方の騎士たちが問題地域の[[慣習]]を調査することを規定したにとどまった。
 
教皇からの通達は4月には届いていたが、既に貴族達は武装蜂起の準備を進めており、5月にノーサンプトンに集結し、王への臣従誓約を破棄した。
 
ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発したが、[[ロンドン]]市は貴族側に同調しこれを迎え入れたため、ジョン王はロンドンの西にある[[ウィンザー城]]に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。
 
1215年である。1月6日ロンドンで、4月26日[[ノーサンプトン]]で、貴族はジョン王と会談した。この間に両派は[[教皇庁]]に訴えることができた。貴族はジョン王の裁決に従うよう言い渡された。そしてやはり、ノーサンプトンでの交渉は決裂したのである。[[5月5日]]ジョン王側で貴族の怒りが爆発した(臣従誓約の破棄)。1週間後、ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発した。貴族はジョン王の廃位を求めて結託した。5月17日[[ロンドン]]市が同調し、貴族を迎え入れた。ジョン王はロンドンの西にある[[ウィンザー城]]に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター([[:en:Robert Fitzwalter|Robert Fitzwalter]])を長とする25人の貴族が代表者として選出されることが盛り込まれた(いわゆる保証条項の一部)。6月10日から島のように開けたラニミードに天幕を張って最終折衝が行われ、19日にマグナ・カルタという妥協が成立した。マグナ・カルタは御料林について、各地方の騎士たちが問題地域の[[慣習]]を調査することを規定したにとどまった。
 
== バロン戦争へ ==