「藤堂高虎」の版間の差分

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一方で内政にも取り組み、上野城と津城の[[城下町]]建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]と[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。
 
元和9年([[1623年]])ころから眼病を患っており、寛永7年([[1630年]])についに[[失明]]してしまった。同年10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。[[享年]]75。死因は不明だが、普請の際に水に浸かったため、喉を痛め[[下痢]]をしていた、それで桔梗湯を煎じて飲ませたという[[カルテ]]が残っている<ref>曲直瀬玄朔『医学天正記』。[[BS-TBS]]『[[にっぽん!歴史鑑定]]』(2015年7月13日放送)でも紹介された。</ref>。後を長男の[[藤堂高次|高次]]が継いだ。養子の[[藤堂高吉|高吉]]は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した([[名張藤堂家]])。
 
墓は[[東京都]][[台東区]][[上野恩賜公園]]内の[[寒松院]]。また、[[三重県]][[津市]]の[[高山神社 (三重県)|高山神社]]に祀られている。屋敷は東京都[[千代田区]][[神田和泉町]]他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。
== 人物・逸話 ==
=== 身体的特徴 ===
[[身長]]は6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている<ref name="楠戸72">楠戸義昭『戦国武将名言録』P72</ref><ref>[[藤田達生]]『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』([[講談社現代新書]]、2006年)P28</ref>。
 
高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている<ref>『平尾留書』</ref><ref name="楠戸72"/>。
 
元和9年([[1623年]])頃から眼病を患っており、寛永7年([[1630年]])には[[失明]]してしまった。
 
=== 家臣への対応 ===
* 高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚かったと言われる。家臣を自らの手元に留めることに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなした上で自分の刀を与え、「行く先がもしも思わしくなければ、いつでも帰ってくるが良いぞ」と別れ際に述べ、少しも意に介しなかった。その者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという([[江村専斎]]の『[[老人雑話]]』)<ref name="itsuwadaijiten">[[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 平成8年2月、P664</ref>。ある時、この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる<ref name="楠戸73"/>。
* 戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材を失ってはならない、という強い想いがあったためだった。そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。開けてみると40人余の札があり、続いて[[駿府]]屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した<ref name="楠戸124">楠戸義昭『戦国武将名言録』P124</ref>。高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意であることを伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」<ref>『武将感状記』</ref>と、「自分の死後は腹を切らずに、切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように」命じた。この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。彼は合戦で右腕を失っており、生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きることに同意したという<ref name="楠戸125">楠戸義昭『戦国武将名言録』P125</ref>。
* 江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である<ref>『高虎遺書禄二百ヶ条』</ref>。つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている<ref name="楠戸72"/>。
 
== 系譜 ==
* 父:[[藤堂虎高]](1516-1599)
* 母:[[藤堂忠高]]の娘 - 多賀良氏の娘・盛との説もある
* 正室:久芳院 - [[一色義直 (旗本)|一色義直]]の娘
* 継室:松寿院 - [[長連久]]の娘
** 嫡男:[[藤堂高次]](1602-1676)
* 生母不明の子女
** 男子:[[藤堂高重]](?-1631) - 次男、佐兵衛佐
** 女子:[[蒲生忠郷]]正室 - 後に[[専修寺]][[堯朝]]室
** 女子:[[藤堂忠季]]室
* 養子
** 男子:[[藤堂高吉]](1579-1670) - [[丹羽長秀]]の三男
** 女子:[[藤堂高刑]]室 - [[織田信清 (戦国武将)|織田信清]]の娘
** 女子:[[岡部宣勝]]正室 - [[桑山元晴]]の娘
** 女子:[[小堀政一]]正室 - [[藤堂良政]]の娘
** 女子:[[生駒正俊]]正室
 
== 家臣 ==
 
; 楽曲
* [[真山隼人]]『[[高虎歌年譜]]』
* [[さくらゆき]]『七夜の星』(詞:[[遠野ゆき]]、曲:[[小池勝彦]])
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[藤田達生]]|title=江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|year=2006|isbn=4-06-149830-4}}
* [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]。
* [[林泉]]『藤堂姓諸家等家譜集』 [[1985年]]。
 
; 史料