「藤堂高虎」の版間の差分

一方で内政にも取り組み、上野城と津城の[[城下町]]建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]と[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。
 
寛永710([[1630年]])10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。[[享年]]75。死因は不明だが、普請の際に水に浸かったため、喉を痛め[[下痢]]をしていた、それで桔梗湯を煎じて飲ませたという[[カルテ]]が残っている<ref>曲直瀬玄朔『医学天正記』。[[BS-TBS]]『[[にっぽん!歴史鑑定]]』(2015年7月13日放送)でも紹介された。</ref>。後を長男の[[藤堂高次|高次]]が継いだ。養子の[[藤堂高吉|高吉]]は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した([[名張藤堂家]])。
 
墓は[[東京都]][[台東区]][[上野恩賜公園]]内の[[寒松院]]。また、[[三重県]][[津市]]の[[高山神社 (三重県)|高山神社]]に祀られている。屋敷は東京都[[千代田区]][[神田和泉町]]他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。