「黒田孝高」の版間の差分

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== 人物 ==
* 築城の名手として知られ、居住した妻鹿城、中津城や[[福岡城]]の他、[[前野長康]]や[[浅野長政]]らと共に、[[姫路城]]、[[大坂城]]、[[高松城 (讃岐国)|讃岐高松城]]、[[石垣山城]]、[[名護屋城]]、[[広島城]]など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行った。[[加藤清正]]は、自身の城は3・4日で落ちるが、福岡城は30から40日は落ちないなどと賞賛している。西には草が江を利用した広大な池沼濠(大濠)、東から攻めてくる敵軍に対する防壁としては、博多に面した那珂川に長さ1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていたように、いつ戦になってもいいように万全の備えがなされていたことによる
* 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば[[黒田長政]]の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
** [[加藤清正]]は、自身の城は3・4日で落ちるが、福岡城は30から40日は落ちないなどと賞賛している。西には草が江を利用した広大な池沼濠(大濠)、東から攻めてくる敵軍に対する防壁としては、博多に面した那珂川に長さ1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていたように、いつ戦になってもいいように万全の備えがなされていたことによる。
* 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば[[黒田長政]]の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
* [[徳川秀忠]]は孝高を「今世の[[張良]]なるべし」と評した([[三河後風土記]])。
* 遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
* 筆頭家老・[[栗山利安]]と[[母里友信]]は如水の命により若い頃に義兄弟の誓紙を交わした。如水が死ぬ間際、二人を呼び「これはあの時の誓紙。本来なら今はもう返すべきだと思うが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから冥土まで持って行こうと思ってる。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れておいてくれ。」と笑いながらそれを大切そうに懐中に入れたという(古郷物語)。
* [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]に所在する[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]に伝来する[[肖像]]は慶長9年(1604年)の作で、家臣の[[井上之房]](九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の[[春屋宗園]]による賛が記されている。如水像は他にも何点かあるが、どれも[[脇息]]にもたれかかり、片膝を立てくつろいだ姿で描かれている。これはしばしば足が不自由だからとする説明があるが、こうした図像は[[柿本人麻呂]]像を始めとする歌人の肖像によく見られる形式であり、歌人としての一面もあった如水の像もこれに倣っていると考えられる<ref>黒田長政と二十四騎展実行委員会編集・発行 『黒田長政生誕四四〇年記念展 黒田長政と二十四騎 黒田武士の世界』 [[福岡市美術館]]、2008年9月、p.93。</ref>。
* 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる<ref name="kafu"/>。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は[[大正時代]]の『黒田如水傳』である。[[小寺休夢]]宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。有岡城内の孝高の安否については、家臣の[[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[井上之房]]などが、城下の商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って確認していたとされる。また有岡城内では[[村田吉次]]の伯母、[[黒田一成]]の父([[加藤重徳]])などに、世話をされていたとされる。
* [[九州征伐]]後の[[豊前国]]5郡半などの褒賞を、貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功に対して少なすぎると評し、これを[[石田三成]]の讒言などによるものとしている。[[湯浅常山]]の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。[[ルイス・フロイス]]の手紙は、孝高がキリシタンであったため迫害を受けたとしている。
* 茶の湯が盛んであった秀吉の時代に、孝高はこれを「勇士の好むべきものではない。主客が無刀で狭い席に集まり座っており、きわめて無用心だ」といって嫌っていた。あるとき、秀吉が孝高を茶室に招いて、茶は出さずに合戦の密談をしたのち、「こういう密談が茶の湯の一徳なのだ。何でもない普通の日にそなたを招いて密談をすれば、人々は疑いを生じ、禍を招くことにもなる。ここならば例の茶の湯ということで人は疑いを生じることはない」と言った。孝高は感服して「拙者は今日はじめて茶の味のすばらしさを飲み覚えました。名将が一途に物にのめり込むことなく心を配っておられる点は愚慮の及ばぬところです」といい、それ以来茶の湯を好むようになったという。
* 次男の熊之助が海難で亡くなった([[#子孫|後述]])後、まだ長政に男子がいなかったため、[[山中城]]の戦いで戦死した妹婿の[[一柳直末]]の遺児で、孝高の養子となっていた松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。
* [[関ヶ原の戦い]]の折、[[石田三成]]方で本戦に加わっていた[[太田一吉]]や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。
* 関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた?(家康の首を取れる絶好の機会にお前は何をしていた)」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが([[#人物|前述]]も参照)、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。ただし慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。
* 鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めは孝高の献策であると後に逸話として語られることがある。だが、従軍していたことは明らかである(『鳥取城合戦始末』記)が、実際に献策を示すような資料があるわけではない。
 
=== 人間関係 ===
==== 秀吉との関係 ====
逸話として、秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に恐れていたと、後の時代に書かれることがある。だが、「おまえは弟の小一郎([[豊臣秀長]])と同じように心安く思っている」と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない<ref name="bunsho"/>
 
* [[名将言行録]]によれば本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べ、以後の秀吉は孝高の智謀を恐れるようになったという。同書には、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は[[徳川家康]]や[[前田利家]]の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るであろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませぬが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の真の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたならば途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている<ref name="meisho">岡谷繁実 『[[名将言行録]]』 前編下冊 巻之二十九</ref>。[[文禄]]5年([[1596年]])の[[慶長伏見地震]]の際、如水は蟄居中の身でありながら倒壊した[[伏見城]]に駆けつけたが、秀吉は同じく蟄居中の[[加藤清正]]の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「わしが死なず残念であったろう」と厳しい言葉をかけたと言われている
孝高は後世にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「[[軍配者]]」が存在し、「[[軍師]]」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と[[千利休]]であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある{{Sfn|諏訪|2013}}。
 
だが、「おまえは弟の小一郎([[豊臣秀長]])と同じように心安く思っている」と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない<ref name="bunsho"/>。
しかし、ルイス・フロイス著の『日本史』には、「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。」として、黒田孝高の名をあげており、参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いない。
 
孝高は後世にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「[[軍配者]]」が存在し、「[[軍師]]」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と[[千利休]]であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある{{Sfn|諏訪|2013}}。しかし、ルイス・フロイス著の『日本史』には、「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。」として、黒田孝高の名をあげており、参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いない
 
印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあったが、そのとき秀吉は機嫌を悪くして「汝は彼ら(パーデレ達)を愛護し、キリシタンたるが故に予が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。下(九州地方)の戦闘に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時パーデレ及びイルマンに対する不快から、その後、豊前国の大部分と王の名称しか与えなかった事を。」<ref>新井トシ訳『グスマン東方伝道史』下巻、養徳社、1945年、536-537頁。原文:..., te quite grande parte de darte lo que auia determinado do darte (dixo esto) porque siendo su capi tan en las guerras del Ximo, le auia prometido de darle dos Reynos, y con el disgusto que enton ces tomo contra los Padres, y corra la Christiandad, no quiso darle despues sino la mayor parte te del Reyno de Buygen, con el titulo de aquel reyno.</ref>と言ったという。
 
==== 竹中重治との関係 ====
[[File:Site of Kuroda Nagamasa and Takenaka Shigekado's Positions.jpg|thumb| 関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]]
孝高(官'''兵衛''')は、同じく秀吉の「軍師」とされる[[竹中重治]](半'''兵衛''')と並んで「'''[[両兵衛]]'''('''二兵衛''')」と呼ばれることがある。
秀吉の死後、[[関ヶ原の戦い]]の際には、黒田長政と竹中重門が隣り合わせで陣を張ったことが陣跡に残されており、「両兵衛」の絆は息子たちにも受け継がれている。
 
==== 毛利家との関係 ====
* [[毛利輝元]]率いる毛利家とは秀吉の名代としてたびたび交渉にあたっており、フロイスの日本史にも「関白は彼を通じて山口の国主(毛利)と交渉している」と書かれてある。また毛利家上洛の折は官兵衛がすべて取り仕切っている記述が残されている。
 
* [[小早川隆景]]とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。[[豊臣秀吉]]の養子であった[[小早川秀秋]]は、[[豊臣秀頼]]誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、[[小早川氏|小早川家]]の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。<!-- もっとも、腹蔵ない友人かというとそうでもなく、隆景は死の直前に「筑紫大名(如水のこと)が休息地を求めても貸すな」と周囲に諭している。(ただし、筑紫は隆景自身の領地であり、黒田長政の領地となったのは隆景が亡くなった後の関ヶ原以降。) -->隆景の末弟で養子の[[毛利秀包|小早川秀包]]を、[[黒田長政]]や[[大友義統]]らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の[[久留米城]]に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。
* [[吉川広家]]とは小早川隆景の死後、特に親密となり、関ケ原の折に孝高・長政親子は広家を通じて毛利・小早川の調略を成功させている。二人がやりとりした手紙も多く残されており、孝高が広家に送った如水釜と呼ばれる茶器も現存している。
 
=== その他の人間関係 ===
* [[吉川広家]]とは小早川隆景の死後、特に親密となり、関ケ原の折に孝高・長政親子は広家を通じて毛利・小早川の調略を成功させている。二人がやりとりした手紙も多く残されており、孝高が広家に送った如水釜と呼ばれる茶器も現存している。
 
==== 家臣との関係 ====
* 家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。ただし、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。ちなみに家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり、死罪を命じたりしていない。
 
* また、身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
 
* 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという<ref name="meisho"/>。
 
==== その他の人間関係 ====
* 自身を幽閉した荒木村重(道糞)とは共に秀吉の家臣になった後も交流があった。書簡の写しが残っている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml 官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認]</ref>。
* 茶道にも造詣深く京都の[[聚楽第]]内の猪熊の屋敷(現在の京都市如水町・小寺町)は一条の[[千利休]]邸と隣り合い、[[茶道]]を学んでいる。堺の豪商・[[津田宗及]]の『天王寺屋会記』や博多の豪商・[[神屋宗湛]]の『宗湛日記』によれば、利休はじめ秀吉ら多くの貴人と同席した記録が残っており、中でも正客として招かれた「野菊の茶会」は著名である。如水は自ら『御茶堂之記』という記録を残し、利休に寄せる自分流の茶道の心得を記している。他にも茶人や造園家として有名な武将・[[小堀政一|小堀遠州]]らとも交流があり、大坂天満の自邸の茶室など、遠州が設計に関わっているとされる。
* [[徳川家康]]の庶子である[[結城秀康]]は、[[小牧・長久手の戦い]]の和睦の際に、人質として[[豊臣秀吉]]に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・[[豊臣鶴松]]が誕生し、[[小田原征伐]]の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた[[結城晴朝]]の養子となり、後を継いだ。[[関ヶ原の戦い]]の後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。
* 京都[[大徳寺]]の名僧・[[春屋宗園]]は如水と大変仲が良く、書状などが複数残っており、[[福岡市美術館]]蔵の肖像画には、宗園の讃が漢文で丁寧に書かれている。晩年は、息子・長政の建立した塔頭・龍光院にて隠棲している。
 
== 逸話 ==
* 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる<ref name="kafu"/>。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は[[大正時代]]の『黒田如水傳』である。[[小寺休夢]]宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。
* 有岡城内の孝高の安否を、家臣の[[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[井上之房]]などが、城下の商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って確認していたとされる。
* 有岡城内では[[村田吉次]]の伯母、[[黒田一成]]の父([[加藤重徳]])などに、世話をされていたとされる。
* 旧主の小寺政職の嫡男・[[小寺氏職]]を庇護したため、[[小寺氏]]は存続する事となった。
* [[九州征伐]]後の[[豊前国]]5郡半などの褒賞を、貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功に対して少なすぎると評し、これを[[石田三成]]の讒言などによるものとしている。[[湯浅常山]]の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。[[ルイス・フロイス]]の手紙は、孝高がキリシタンであったため迫害を受けたとしている。
*茶の湯が盛んであった秀吉の時代に、孝高はこれを「勇士の好むべきものではない。主客が無刀で狭い席に集まり座っており、きわめて無用心だ」といって嫌っていた。あるとき、秀吉が孝高を茶室に招いて、茶は出さずに合戦の密談をしたのち、「こういう密談が茶の湯の一徳なのだ。何でもない普通の日にそなたを招いて密談をすれば、人々は疑いを生じ、禍を招くことにもなる。ここならば例の茶の湯ということで人は疑いを生じることはない」と言った。孝高は感服して「拙者は今日はじめて茶の味のすばらしさを飲み覚えました。名将が一途に物にのめり込むことなく心を配っておられる点は愚慮の及ばぬところです」といい、それ以来茶の湯を好むようになったという。
* 次男の熊之助が海難で亡くなった([[#子孫|後述]])後、まだ長政に男子がいなかったため、[[山中城]]の戦いで戦死した妹婿の[[一柳直末]]の遺児で、孝高の養子となっていた松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。
* [[関ヶ原の戦い]]の折、[[石田三成]]方で本戦に加わっていた[[太田一吉]]や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。
* 関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた?(家康の首を取れる絶好の機会にお前は何をしていた)」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが([[#人物|前述]]も参照)、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。ただし慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。
* 関ヶ原で西軍側についた[[宇喜多氏]]の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある[[明石全登]]を、弟・直之の元で庇護したとされる。
* 旧主の小寺政職の嫡男・[[小寺氏職]]を庇護したため、[[小寺氏]]は存続する事となった。
* 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという<ref name="meisho"/>。
* 隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の[[海音寺潮五郎]]はこの事を指して信長・秀吉・家康の[[三英傑]]より人物的には勝っていると評した。
* 身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
* 家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。ただし、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。ちなみに家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり、死罪を命じたりしていない。
* 隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の[[海音寺潮五郎]]はこの事を指して、信長・秀吉・家康の[[三英傑]]より人物的には勝っていると評した。
* [[名将言行録]]によれば本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べ、以後の秀吉は孝高の智謀を恐れるようになったという。同書には、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は[[徳川家康]]や[[前田利家]]の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るであろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませぬが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の真の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたならば途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている<ref name="meisho">岡谷繁実 『[[名将言行録]]』 前編下冊 巻之二十九</ref>。
* [[文禄]]5年([[1596年]])の[[慶長伏見地震]]の際、如水は蟄居中の身でありながら倒壊した[[伏見城]]に駆けつけたが、秀吉は同じく蟄居中の[[加藤清正]]の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「わしが死なず残念であったろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
* 鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めは孝高の献策であると後に逸話として語られることがある。だが、従軍していたことは明らかである(『鳥取城合戦始末』記)が、献策を示すような資料があるわけではない。
 
== 遺品 ==