「秋月文種」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2019年1月15日 (火) 06:15 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 秋月 文種
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[中務省|中務大輔]]、
| 幕府 =
| 主君 = [[大内義隆]]
| 藩 =
| 氏族 = [[秋月氏]]
| 父母 = 父:[[秋月種時]]
| 兄弟 =
| 妻 = [[原田義種]]妹
| 子 = [[秋月晴種|晴種]]、'''[[秋月種実|種実]]'''、[[高橋種冬]]<ref>のち元種、[[高橋鑑種]]養子。</ref>、[[長野助盛|長野種信]]<ref>子に[[長野永盛|永盛]]、[[田原親貫]]。<
| 特記事項 =
}}
'''秋月 文種'''(あきづき ふみたね)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[秋月氏]]15代当主。[[筑前国]][[古処山城]]主。
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天文20年([[1551年]])、[[陶晴賢]]の謀反により大内義隆が自害すると([[大寧寺の変]])、[[大友義鎮|大友宗麟]]に属した。
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、大内氏が滅んで[[毛利氏]]の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は[[毛利元就]]の調略に応じて大友氏に反旗を翻した。このため7月、宗麟は[[立花道雪]]と[[臼杵鑑速]]に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は[[秋月城]]を捨て、晴種のいた[[古処山城]]で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、晴種と共に城中にて自刃した。しかし、残りの子供達は家臣らに守られ、[[毛利氏]]の元に逃れるなどした。
文種・晴種父子の死により、秋月氏は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している。
== 脚注 ==
<references/>
{{秋月氏歴代当主|第15代|1531年 - 1557年}}
{{DEFAULTSORT:あきつき ふみたね}}
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