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== 来歴 ==
[[長野県]][[松本市]]生まれ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる[[浅間温泉]]で[[半玉]](芸者見習い)となる。客に求められた[[長唄]]を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京。大正15年([[1926年]])6月18日、[[浅草]]の一松家から芸者お披露目し<ref name=onna>「女藝者の時代」岸井良衞著(1974年 青蛙房)</ref>、[[清元節|清元]]・[[長唄]]・[[小唄]]それぞれで[[名取]]となるまでの精進を重ねた。浅草四人組(児雀、久松、大黒、市丸)の一人として名を馳せ、その天賦の美貌と美声を買われて忽ち人気芸者となり、最盛期には一晩に10数件のお座敷を掛け持ちすることもあった。のち、分一松家の分看板を得て独立<ref>「ムード」
創刊号(1934年9月 ムード社)</ref>。
 
[[日本橋人形町|日本橋葭町]]の芸者、二三吉(後の[[藤本二三吉]])の吹き込んだ『[[浪花小唄]]』、『[[祇園小唄]]』のヒットを受け、レコード各社は新たな[[うぐいす芸者歌手|芸者歌手]]の発掘に躍起となり、美声の評判の高かった市丸にも白羽の矢が立ち、[[スカウト (勧誘)|スカウト]]が殺到。結局、[[ビクター]]が市丸を口説き落とし、昭和6年([[1931年]])『'''花嫁東京'''』で歌手としてデビューした。同年、[[静岡鉄道]]の[[コマーシャルソング]]として作られ、既に[[新民謡]]として知られていた『'''[[ちゃっきり節]]'''』を市丸の歌で発売すると全国的な大ヒットとなり、レコード歌手としての順調なスタートを切った。翌年の昭和7年([[1932年]])にも、[[片岡千恵蔵]]が主演した[[映画]]『旅は青空』の[[主題歌]]『'''青空恋し'''』を歌い、ヒットした。
 
昭和8年([[1933年]])1月、同じビクターの[[小唄勝太郎]]が『島の娘』『[[東京音頭]]』で国民的な人気歌手となると、流行歌の世界に[[うぐいす芸者歌手|鶯歌手]]ブームが起こり、[[日本コロムビア|コロムビア]]からは[[赤坂小梅]]、[[豆千代]]、[[ポリドール]]からは[[新橋喜代三]]、[[浅草〆香]]、[[ニットー]]からは[[美ち奴]]、[[日本橋きみ栄]]ら、続々と芸者出身のレコード歌手がデビューした。市丸は、こうした後輩に遅れを取らじと、同郷の[[中山晋平]]が新民謡として作曲した『'''天龍下れば'''』をなんとしてもヒットさせたいと、[[放送]]や[[ステージ]]では必ず『天龍下れば』を歌い、執念ともいえる大ヒットに結びつけ、ビクターの看板歌手としての地位を確立した。市丸の人気はレコード・放送にとどまらず、写真誌や[[広告]]、[[美人画]]の[[美術モデル|モデル]]にも起用され、広くその人気を知られることとなり、歌手業に専念するため芸者を廃業し(昭和10年12月31日<ref name=onna>「女藝者の時代」岸井良衞著(1974年 青蛙房)</ref>)、[[柳橋 (神田川)|柳橋]]に自宅を建てて浅草を離れた。
 
昭和10年([[1935年]])前後、人気を二分した勝太郎とは、[[作詞家]]の[[長田幹彦]]に「'''情の勝太郎と智の市丸'''」と言わしめ、[[マスメディア|マスコミ]]は「'''市勝時代'''」と呼んだが、その[[ライバル]]意識はお互いに相当なもので、市丸がメインの特集には「市勝時代」、勝太郎がメインの記事には「勝市時代」と書く配慮を見せるほどであった。着物や出演料などあらゆるところで勝太郎と張り合い、当時のビクターの社員を相当悩ませたという。事実、芸者歌手の売り出しに反発を感じた音楽学校出身の歌手が、待遇改善を求めて[[ストライキ]]を行ったほどである。この騒動は「トンガリ5人組事件」などと週刊誌などに書き立てられ、ビクターの内紛が世間にも広く知られた。