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17歳で[[江戸]]の親類のもとに奉公へ出た。
 
「楠木正雪」あるいは[[楠木氏]]の本姓の[[橘氏 (伊予国)|伊予橘氏]]([[越智氏|越智姓]])から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、[[神田 (千代田区)|神田]]連雀町の長屋において[[楠木正辰]]の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた(俗説では[[楠不伝]]の教えを受け、その後を継いだとされる)。塾名は、[[中国]]の名[[軍師]]と言われる[[張良|'''張'''子房]]と[[諸葛亮|諸葛'''孔'''明]]に由来している。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には[[浪人]]のほか諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた<ref name=":0" />。
 
=== 慶安の変 ===
[[File:由比正雪公首塚 - panoramio.jpg|thumb|菩提樹院の首塚]]
{{main|慶安の変}}
慶安4年(1651年)、[[江戸幕府]]第3代[[徳川将軍家|将軍]][[徳川家光]]の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、[[宝蔵院流槍術|宝蔵院流]]の[[槍術]]家[[丸橋忠弥]]、[[金井半兵衛]]、[[熊谷直義 (慶安の変)|熊谷直義]]など各地で浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は[[駿府]]の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。享年47。首塚は[[静岡市]][[葵区]]沓谷の[[菩提樹院]]に存在する。
 
大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍[[徳川家綱]]以降の政治が[[武断政治|武断政策]]から[[文治政治|文治政策]]へ転換するきっかけの一つとなった。
 
== 実録本『慶安太平記』 ==
由井正雪の生涯は、大幅に脚色されて、[[江戸時代]]の[[実録本]]『[[慶安太平記]]』として流布した。『慶安太平記』は、由井正雪を[[武田信玄]]の生まれ変わりと設定、『[[太平記]]』の[[楠木正成]]的な性格を強調し、また正雪の武者修行や奥州[[白石城]]下で行われたとされる「宮城野・信夫」の仇討話を挿入するなど、それ以前に成立した[[実録本]]『油井根元記』の一群よりも読み物として充実した内容を持つ<ref name=":1" />。正雪が修行中に[[天草諸島|天草島]]で[[森宗意軒]]から幻術を教わるなど、[[天草軍記]]との関連が深い<ref name=":1">{{Cite |和書 |author = 岡本勝・雲英末雄 |title =新版近世文学研究事典 |date = 2006-02 |pages = 130 |publisher = おうふう|ref = harv }}</ref>。
 
== 関連施設 ==
* 静岡市[[清水区]]由比地区に正雪の生家とされる[[染物]]屋があり、「正雪紺屋」と呼ばれている<ref>{{Cite|和書|author=[[進士慶幹]]|title=由比正雪|date=1961-06|publisher=吉川弘文館|pages=1-4|ref=harv}}</ref>。
 
== 登場作品 ==