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== 三国志演義において ==
小説『[[三国志演義]]』においては、孫権が呉の国主になった後に集まってきた武将の一人として名が挙がり、孫権の将軍として何回か名前が登場する。江夏攻略戦、赤壁の戦い、南郡攻略戦、濡須口の戦い、皖城攻略戦、関羽討伐戦、夷陵防衛戦にも参加した。
 
江夏攻略戦では蘇飛を生け捕らえる。
 
三江口の戦いでは周瑜の指示で三江口に陣取ることになり凌統と共に第3隊として出陣した。その後、周瑜の策で第6陣として3千人を引き連れて董襲を迎える。赤壁の戦いでは潘璋・董襲と共に敗走する曹操軍にそれぞれ火を掛けて鬨の声をあげ、四方に陣太鼓がとどろきわたった。曹操と張遼は僅か百余騎ひきい、敗走する
 
南郡攻略戦では周瑜の死んだふりに騙された敵は、牛金を先鋒に、曹仁は中軍、曹洪・曹純を後詰として陳矯だけを城に残して夜襲をかけてきたが、周瑜の本陣はもぬけの空。東からは韓当・蒋欽、西から周泰・潘璋、南から徐盛・丁奉、北から陳武・呂蒙、東・西・北の呉軍と共に曹軍を撃退した。
 
劉備が[[孫夫人]]との婚礼のため呉を訪れ、のちに孫夫人を連れて荊州に逃走したときは、陳武とともに追撃の任を孫権から任されるが、[[張昭]]に2人では孫夫人の相手は務まらないだろうといわれ、孫夫人に一喝され引き返している。
 
濡須口の戦いでは、曹操が40万以上の軍勢を率いて呉に攻め寄せる。孫権に挑発されたので、怒った曹操は部下全員に命じて孫権を生け捕りにしようとしますが、この際に山の後ろから左右翼の両軍が現れた。右から韓当・周泰、南から陳武・潘璋、四人は弓矢隊3000人を率いて敵全軍を撃退した。曹操軍は総崩れに、曹操は矢の雨の下で許褚に救われた。
 
皖城攻略戦において、呂蒙・甘寧は先鋒となり、蒋欽・潘璋は後詰を務めた。