「上野戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
46行目:
[[ファイル:Ueno Battlefield.JPG|thumb|none|上野戦跡]]
}}
新政府軍は長州藩の[[大村益次郎]]が指揮した。大村は[[海江田信義]]ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に[[神田川 (東京都)|神田川]]や[[隅田川]]、[[中山道]]や[[日光街道]]などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、[[根岸 (台東区)|根岸]]方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、[[西郷隆盛]]は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。[[池波正太郎]]が[[日本史探訪]]において述べたところでは、大村は薩摩藩兵が気に入らず前述の布陣を敷き、問い詰めたのは[[桐野利秋]]になっている。ただ、黒門口を受け持つことを各員が希望していたという話もあり、実際のところは不明である。いずれも虐殺の誹りを避けるための後世の作り話とも考えられる。反抗勢力(旧幕府勢力)は懐柔せず徹底的に殲滅するのが当時の新政府軍の方針であり、その方針は続く[[会津戦争]]で遺憾なく発揮されたからである。
 
[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[7月4日]])、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口([[下谷広小路|広小路]]周辺)や即門の[[団子坂]]、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の[[谷中 (台東区)|谷中]]方面では[[谷田川 (東京都)|藍染川]]が増水していた。新政府軍は新式の[[スナイドル銃]]の操作に困惑するなどの不手際もあったが、[[加賀藩]]上屋敷(現在の[[東京大学]]構内)から[[不忍池]]を越えて[[佐賀藩]]の[[アームストロング砲]]や[[四斤山砲]]による砲撃を行った。彰義隊は[[上野東照宮|東照宮]]付近に本営を設置し、山王台([[西郷隆盛]]銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺[[本堂]]へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が[[根岸 (台東区)|根岸]]方面に敗走した。