「シャルル=フランソワ・ドービニー」の版間の差分

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== エピソード ==
*[[1867年]]9月にアトリエ船「ボタン号」は最後の航行を終えたが、[[1868年]]春、より堂々とした駆体の新しいアトリエ船「ボッタン号」が使われ始めた。
*1868年にサロン審査員として、多数の反対意見にもかかわらず、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[クロード・モネ|モネ]]、[[フレデリック・バジール|バジール]]、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]、[[ベルト・モリゾ]]の作品を入選させた。[[ウジェーヌ・ブーダン|ブーダン]]、[[オディロン・ルドン|ルドン]]、[[Jules-Antoine Castagnaryジュール=アントワーヌ・カスタニャリ|カスタニャリ]]は、ドービニーに対する敬意と称賛を表した。
*[[1870年]]、[[フランス第二帝政|第二帝政]]期最後のサロンで、[[カミーユ・コロー|コロー]]とともに改めて審査員に選ばれたものの、[[クロード・モネ|モネ]]の作品を入選させることが叶わず、審査員を辞任した。
*[[1870年]]に[[普仏戦争]]が起こると、一時的に[[ロンドン]]に避難し、同じく同地に避難していたモネと[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]に、後に印象派の[[画商]]として知られる[[ポール・デュラン=リュエル]]を紹介した。