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{{otheruses||企業|融 (企業)}}
[[File:Toru UMEWAKA Mansaburo 1st.jpg|thumb|[[梅若万三郎 (初世)|初世梅若万三郎]]による「融 酌之舞」]]
{{能楽作品
|画像=[[image:NOHlogo.JPG|130px]]
|演目名=融
|作者(年代)=[[世阿弥]]([[室町時代]]
|形式=貴人物・太鼓物 複式夢幻能
|能柄=貴人物(五番目物)
|現行上演流派=観世・宝生・金春・金剛・喜多
|現行上演流派=[[観世流|観世]]、[[宝生流|宝生]]、[[金春流|金春]]、[[金剛流|金剛]]、[[喜多流|喜多]]
|異称=塩釜(室町期)
|異称=
|能柄=五番目物
|シテ=[[源融]]
|登場人物=旅の僧(ワキ)
|季節=秋
|シテ=潮汲みの老人(前)、源融の霊(後)
|登場人物=旅の僧
|場所=京都・六条
|本説=[[源融]]・[[河原院]]伝承
|よみかな=とおる
}}
'''融'''(とおる)は、平安時代の左大臣[[源融]]とその邸宅・[[河原院]]をめぐる伝説を題材とする[[能]]の演目の1つ作品。五番目物・貴人物・太鼓物に分類される。囃子に太鼓が入る太鼓物である<ref name="matsumoto_110">[[#松本|松本(1987) (1987: 110)]]、p.110</ref>。作者は[[世阿弥]]([[1363年]]? - [[1443年]]?)
 
== 概要 ==
平安時代の左大臣[[源融]]とその邸宅・[[河原院]]をめぐる伝説を題材とする。荒廃したかつての河原院跡に月明かりの夜、融の霊が現われるという趣向で、情緒ある詩的な「佳品」と評される<ref name="matsumoto_110" />。
[[ファイル:Toru UMEWAKA Mansaburo 1st.jpg|thumb|right|[[梅若万三郎 (初世)|初世梅若万三郎]]による「融 酌之舞」]]
能のあらすじは次のとおりである。東国から上洛した僧(ワキ)が、京都六条[[河原院]]に着く。そこに老人(前シテ)が現れ、自分のことを「潮汲み」と名乗る。そして、かつて[[源融|融]]の大臣が、陸奥・塩竈の浦の景色を都に移すために、難波から海水を都まで運ばせて池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。続いて、老人は、僧の求めに応じ、河原院から見える東の音羽山から西の嵐山までの名所を教えるが、ふと我に返ると、潮を汲む有様を見せて、姿を消す(中入り)。僧のもとに、近くに住む都人(アイ)が現れ、河原院の来歴を再説する。僧が夜寝ていると、融の大臣の亡霊(後シテ)が現れ、昔を思い出しながら舞を舞い、名残を惜しみながら月の都に帰っていく。
 
==あらすじ 進行 ==
=== 前場 ===
都へと上ってきた旅の僧(ワキ)がある夜、六条河原院の邸宅跡を訪れる。そこに桶を携えた潮汲み(製塩のため、海水を汲むこと)の老人(前ジテ)が姿を見せる。
==== 僧の登場 ====
東国から上洛した旅の僧(ワキ)が登場し、京都六条河原院に着いたことを告げる。
{{Verse translation|ワキ「これは東国方より出でたる僧にて候、われいまだ都を見ず候ふほどに、このたび思ひ立ち都に{{Ruby|上|のぼ}}り候
(中略)
ワキ「急ぎ候ふほどに、これははや都に着きて候、このあたりをば六条河原の院とやらん申し候、しばらく休らひ一見せばやと思ひ候<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 277-78)]]。</ref>
|[僧]私は東国方から来た僧です。私はまだ都を見たことがありませんので、この度思い立ち、都に上ることにしたのです。
(中略)
[僧]急ぎましたので、早くも都に着きました。この辺りを六条河原院とかいうようです。しばらく逗留して、見物しようと思います。}}
 
==== 潮汲みの老人の登場 ====
海辺でもないのになぜ潮汲みを、といぶかる僧に老人は、ここが亡き融大臣の邸宅・河原院の跡であると伝え、生前の融が奥州[[塩竈市|塩竈]]の光景を再現しようと、難波の浦からわざわざ海水を運ばせ、庭で潮汲み・製塩を行わせていた故事を語る。しかし融の死後は跡を継ぐ人もなく、邸宅も荒れ果ててしまったといい、老人は昔を偲んで涙を流す。
そこに老人(前シテ)がやってきて、河原院の景色をほめるとともに、自らの老いた身を嘆く。前シテは、笑尉(または朝倉尉)の[[能面|面]]で、尉髪、水衣、腰蓑、扇という出で立ちである。{{Ruby|担桶|たご}}を担っている<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 278)]]。</ref>。
{{Verse translation|シテ〽月もはや、{{Ruby|出潮|でじお}}になりて{{Ruby|塩竈|しおがま}}の、うらさびわたる景色かな<ref group="注釈">金春流・金剛流・喜多流では「うらさびまさる夕べかな」。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref>
シテ〽陸奥はいづくはあれど塩竈の、恨みて渡る老いが身の、寄る辺もいさや定めなき、心も澄める水の{{Ruby|面|おも}}に、照る月並みを数ふれば、今宵ぞ秋の{{Ruby|最中|もなか}}なる、げにや移せば塩竈の、月も都の最中かな<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 278)]]。</ref>
(後略)
|[老人]早くも月が出る頃となって潮が満ち、塩竈の浦のうら寂しい景色であるよ。
[老人]陸奥の名所は多いが、塩竈の浦は格別である<ref group="注釈">『[[古今和歌集]]』東歌「陸奥はいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ船の綱手かなしも」による。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 288)]]。</ref>。境遇を恨んで過ごす老人の身は、頼りとする者もなく定めない。しかしそんな心も澄みわたる、水面に映る月。「水面に映る月を見て、月日を数えると、今宵が秋の真ん中の十五夜であった」という和歌があるが<ref group="注釈">『[[拾遺和歌集]]』秋「水の面に照る月並みを数ふれば今宵ぞ秋の最中なりける」([[源順]])による。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 288)]]。</ref>、そのとおり今宵は秋の真ん中の日だ。実に、塩竈の景色を移したここの月は、都の真ん中の月でもある。
(後略)}}
 
==== 僧と潮汲みの老人との問答 ====
老人はさらに、邸宅から見える京の山々について僧に案内するが、ふと我に返ったように桶を取り直して潮汲みを始める。やがて立ちこめる潮曇りの中、老人はいつの間にか姿を消してしまう。
[[ファイル:曲木神社 Magaki Shrine - panoramio.jpg|thumb|right|200px|現在の[[塩竈市]]・籬が島の曲木神社。]]
僧が老人に話しかけると、老人は、自分のことを「潮汲み」と名乗る。僧は、海辺でもない都で「潮汲み」というのはおかしいのではないかと問うと、老人は、河原院は融の大臣が昔塩竈の浦の景色を移してきた場所なので、「潮汲み」と言っておかしくないと答える。そのうちに月が出て、2人は唐の詩人[[賈島]]の詩句を思い出して感慨にふける。
{{Verse translation|ワキ「いかにこれなる尉殿、おん身はこのあたりの人か
シテ「さん{{Ruby|候|ぞうろう}}、この所の潮汲みにて候
ワキ「不思議やここは{{Ruby|海辺|かいへん}}にてもなきに、潮汲みとは誤りたるか尉殿
シテ「あら{{Ruby|何|なに}}ともなや、さてここをばいづくと知ろし召されて候ふぞ
ワキ「この所をば六条河原の院とこそ承はりて候へ
シテ「河原の院こそ塩竈の浦{{Ruby|候|ぞうろ}}ふよ、融の{{Ruby|大臣|おとど}}{{Ruby|陸奥|みちのく}}の{{Ruby|千賀|ちか}}の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば<ref group="注釈">金春流・金剛流・喜多流では「陸奥の千賀の塩竈を、移されたる都のうちの海辺なれば」。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref> 〽名に流れたる河原の院の、{{Ruby|河水|かすい}}をも汲め{{Ruby|池水|ちすい}}をも汲め、ここ塩竈の浦人なれば、潮汲みとなど{{Ruby|思|おぼ}}さぬぞや
ワキ「げにげに陸奥の千賀の塩竈を、都のうちに移されたること承はり及びて候、さてはあれなるは{{Ruby|籬|まがき}}が島{{Ruby|候|ぞうろ}}ふか
シテ「さん{{Ruby|候|ぞうろう}}、あれこそ籬が島{{Ruby|候|ぞうろ}}ふよ、融の大臣常はみ舟を寄せられ、ご酒宴の{{Ruby|遊舞|いうぶ}}さまざまなりし所ぞかし、や、月こそ{{Ruby|出|い}}でて候へ
ワキ「げにげに月の出でて候ふぞや、あの籬が島の森の梢に、鳥の{{Ruby|宿|しゅく}}し{{Ruby|囀|さえず}}りて、しもんに映る月影までも、〽こしうに返る身の上かと、思ひ出でられて候
シテ「{{Ruby|何|なに}}とただいまの面前の景色がお僧のおん身に知らるるとは<ref group="注釈">宝生流・金春流・金剛流・喜多流では「遠き古人の心まで、お僧のおん身に」。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref>、もしも{{Ruby|賈島|かとう}}が言葉やらん 〽鳥は{{Ruby|宿|しゅく}}す{{Ruby|池中|ちちう}}の樹
ワキ〽僧は{{Ruby|敲|たた}}く月下の門
シテ〽{{Ruby|推|お}}すも
ワキ〽敲くも
シテ〽古人の心
シテ・ワキ〽いま{{Ruby|目前|もくぜん}}の{{Ruby|秋暮|しうぼ}}にあり
地謡〽げにやいにしへも、月には千賀の塩竈の、月には千賀の塩竈の、{{Ruby|浦廻|うらわ}}の秋も半ばにて、松風も立つなりや、霧の籬の島隠れ、いざわれも立ち渡り、昔の跡を陸奥の、千賀の浦廻を眺めんや、千賀の浦廻を眺めん<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 279-81)]]。</ref>
|[僧]もし、そちらのご老人、あなたはこの辺りの人ですか。
[老人]そうです。この土地の潮汲みです。
[僧]これは不思議なこと、ここは海辺でもないのに、潮汲みというのは間違いではないか、ご老人。
[老人]なんと興ざめな。それではここをどこだと思っておいでですか。
[僧]ここは六条[[河原院]]と伺っています。
[老人]河原院はまさに塩竈の浦なのです。融の大臣が[[陸奥国|陸奥]]の千賀にある[[塩竈市|塩竈]]の浦を都の中に移した海辺ですので、その有名な河原院でたとえ川の水を汲んでも、池の水を汲んでも、塩竈の浦人ということになるのですから、潮汲みであると思われませんか。
[僧]確かに確かに、陸奥の千賀の塩竈を都の中に移されたということは聞き及んでおります。それではあそこにあるのが籬が島(塩竈の浦に浮かぶ島で、[[歌枕]])になるのでしょうか。
[老人]そうです、あれこそ籬が島です。融の大臣がいつもお舟をお寄せになって、ご酒宴の遊舞を様々楽しんでいたところです。おや、月が出てきました。
[僧]本当に、月が出てきました。あの籬が島の森の梢に、鳥が止まってさえずり、柴門<ref group="注釈">「しもん」は「柴門」の意か。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 288)]]。あるいは河原院の東西南北の「四門」の意か。[[#伊藤|伊藤 (1986: 401)]]。</ref>に落ちる月光までも、昔の秋<ref group="注釈">「こしう」は「孤舟」という字が当てられているが疑問が呈されている。「古秋」の意か。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 401)]]、[[#伊藤|伊藤 (1986: 401)]]。</ref>に返るということが、我が身のことのように思われます。
[老人]なんと、この眼の前の景色がお僧自身のことのように思われるとは、ひょっとして[[賈島]]の詩の言葉ではありませんか。「鳥は宿す池中の樹……」
[僧]「僧は敲く月下の門」
[老人](賈島が「[[推敲]]」の故事で悩んだように)「推す」とするか
[僧]「敲く」とするか
[老人]その古人の心が
[老人・僧]いま目の前の秋暮の景色に表れている。
――本当に、遠い昔のことも月のもとでは近く感じられる。千賀の塩竈の浦の秋も半ばで、松風も吹いているようだ。霧で籬が島は隠れている。さあ、私も籬が島の方に近づき、昔の跡を見、千賀の浦を眺めよう。}}
 
==== 河原院の来歴の述懐 ====
そこにやってきた近所の男(アイ)は、老人の正体は融本人の霊ではないかと僧に教える。男が言うとおりに僧がその場で待っていると、生前の姿の融(後ジテ)が現われる。月の光に照らされながら、融は舞に興じる。やがて明け方が近づくころ、融はまるで「月の都」に向かうように、月光の中に消失する。
[[ファイル:源融 河原院跡 石碑.jpg|thumb|right|150px|河原院跡の石碑。]]
僧が、老人に、塩竈の浦を都に移した由来を尋ねる。すると、老人は、融の大臣が難波から海水を都まで持ってこさせて塩竈の浦を模した池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。
{{Verse translation|ワキ「塩竈の浦を都のうちに移されたる{{Ruby|謂|い}}はれおん物語り候へ
シテ「嵯峨の天皇の{{Ruby|御宇|ぎょう}}に、融の大臣<ref group="注釈">宝生流・金春流・金剛流・喜多流では「融の大臣と申しし人」。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref>陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせたまひ、この所に塩竈を移し<ref group="注釈">宝生流・金春流・金剛流・喜多流では「この所に塩竈を移し」がない。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref>、あの{{Ruby|難波|なにわ}}の{{Ruby|御津|みつ}}の浦よりも、日ごとに{{Ruby|潮|うしお}}を汲ませ、ここにて塩を焼かせつつ、一生{{Ruby|御遊|ぎょいう}}の便りとしたまふ、しかれどもそののちは相続して{{Ruby|翫|もてあそ}}ぶ人もなければ、浦はそのまま{{Ruby|干潮|ひしお}}となつて 〽{{Ruby|池辺|ちへん}}に淀む{{Ruby|溜水|たまりみず}}は、雨の残りの古き江に、落葉散り浮く松蔭の、月だに{{Ruby|住|す}}まで秋風の、{{Ruby|音|おと}}のみ残るばかりなり、されば歌にも、君まさで、煙絶えにし塩竈の、うら{{Ruby|淋|さみ}}しくも見えわたるかなと、{{Ruby|貫之|つらゆき}}も{{Ruby|詠|なが}}めて候
地謡〽げにや眺むれば、月のみ満てる塩竈の、うら淋しくも荒れ果つる、{{Ruby|後|あと}}の世までも塩{{Ruby|染|じ}}みて、老いの波も返るやらん、あら昔恋しや
地謡〽恋しや恋しやと、慕へども嘆けども<ref group="注釈">金春流・金剛流・喜多流では「慕へども願へども」。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref>、かひも渚の浦千鳥、{{Ruby|音|ね}}をのみ泣くばかりなり、音をのみ泣くばかりなり<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 281-82)]]。</ref>
|[僧]塩竈の浦を都の中にお移しになった由来をお話しください。
[老人][[嵯峨天皇]]の御代に、融の大臣が陸奥の千賀の塩竈の眺望のことをお聞き及びになり、この場所(都)に塩竈の景色を移そうとして、あの[[難波津]]の浦から、毎日海の水を汲んでこさせ、ここで塩を焼かせ、生涯、御遊の楽しみの種となさいました。しかし大臣が亡くなった後はこれを相続して楽しむ人もいなかったので、浦はそのまま干潟となって、池辺に淀んで溜まった水は、雨水がたまったものにすぎない。昔の入り江には、落ち葉が散り浮かび、松陰を洩れる月でさえきれいに映ることがない。秋風の音だけが残るばかりだ。だから和歌でも「あなた(融の大臣)がいらっしゃらなくなって、塩を焼く煙が絶えた塩竈が、物寂しく見渡されることだ」<ref group="注釈">『[[古今和歌集]]』哀傷「河原の左のおほいまうちぎみの身まかりて後、かの家にまかりてありけるに、塩竈といふ所のさまを作りけるをみて詠める、貫之。君まさで煙絶えにし塩竈のうらさびしくもみえわたるかな」とあるのを引いている。[[#伊藤|伊藤 (1986: 400, 403)]]。</ref>と[[紀貫之]]も詠んだのです。
――本当に、見渡すと、月の光だけが満ちている塩竈は、物寂しく荒れ果ててしまい、後世の今も塩が染み付いていて、私の身にも老いの波が寄せ返すようだ、ああ昔が恋しい。
――恋しい恋しいと、慕っても嘆いても甲斐がない。渚の浦千鳥のように、声を上げて泣くばかりだ。}}
 
==== 名所教え ====
==登場人物==
一転して、僧は老人に、河原院から見える名所を尋ねる。老人は、東に見える音羽山、そこから南の方へ清閑寺、今熊野、稲荷山、藤の森、深草山、木幡山、と名所を教えていく。
*前ジテ - 潮汲みの老人(面は笑尉、または朝倉尉)
{{Verse translation|ワキ「いかに尉殿、見えわたりたる山々はみな名所にてぞ候ふらん、おん教え候へ
*後ジテ - 源融の霊(面は中将、または今若)
シテ「さん{{Ruby|候|ぞうろう}}、みな名所にて候、おん尋ね候へ、教え申し候ふべし
*ワキ - 旅の僧
ワキ「まづあれに見えたるは{{Ruby|音羽山|おとわやま}}{{Ruby|候|ぞうろ}}ふか
*アイ - 都六条辺の者<ref name="matsumoto_110" />
シテ「さん{{Ruby|候|ぞうろう}}、あれこそ音羽山{{Ruby|候|ぞうろ}}ふよ
ワキ「音羽山{{Ruby|音|おと}}に聞きつつ{{Ruby|逢坂|おうさか}}の、関のこなたにと詠みたれば、逢坂山もほど近うこそ候ふらめ
シテ「仰せのごとく関のこなたにとは詠みたれども、あなたにあたれば逢坂の、山は音羽の峰に隠れて 〽この辺よりは見えぬなり
ワキ〽さてさて音羽の峰続き、次第次第の山並みの、名所名所を語りたまへ
シテ「語りも尽くさじ言の葉の、歌の{{Ruby|中山|なかやま}}{{Ruby|清閑寺|せいがんじ}} 〽{{Ruby|今熊野|いまぐまの}}とはあれぞかし
ワキ〽さてその末に続きたる、{{Ruby|里|さと}}{{Ruby|一叢|ひとむら}}の森の{{Ruby|木立|こだち}}
シテ「それをしるべにご覧ぜよ、まだき{{Ruby|時雨|しぐれ}}の秋なれば、紅葉も青き{{Ruby|稲荷山|いなりやま}}
ワキ〽風も暮れ行く雲の葉の、梢も青き秋の色
シテ「いまこそ秋よ名にし負ふ、春は花見し藤の森
ワキ〽緑の空も影青き、野山に続く里はいかに
シテ〽あれこそ夕されば
ワキ〽野辺の秋風
シテ〽身にしみて
ワキ〽{{Ruby|鶉|うずら}}鳴くなる
シテ〽深草山よ
地謡〽{{Ruby|木幡山|こわたやま}}伏見の竹田、淀{{Ruby|鳥羽|とば}}も見えたりや
(後略)<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 282-83)]]。</ref>
|[僧]もしご老人、見渡せる山々はみな名所なのでしょう。それをお教えください。
[老人]そうです、みな名所です。お尋ねください、教えて差し上げます。
[僧]まず、あちらに見えているのは[[音羽山 (滋賀県・京都府)|音羽山]]でしょうか。
[老人]そうです、あれこそ音羽山ですよ。
[僧]「音羽山のことは話に聞きつつも、逢坂の関のこちら側で逢わずに年月が過ぎていくことだ」<ref group="注釈">『[[古今和歌集]]』恋「音羽山音に聞きつつ逢坂の関のこなたに年を経るかな」([[在原元方]])を引く。</ref>という歌がありますから、[[逢坂山]]もほど近くなのでしょうね。
[老人]おっしゃるように「関のこちら側」という歌はありますが、(ここからは)逢坂山は関のあちら側に当たるので、音羽山の峰に隠れて、この辺りからは見えないのです。
[僧]それでは、音羽山の峰に続いて順々にある山並みの名所名所をお語りください。
[老人]言葉で語っていてはきりがありませんが、歌の中山と呼ばれる[[清閑寺]]。[[今熊野]]というのはあのことです。
[僧]そしてその端に続いている里にひと塊の森の木立がある。
[老人]それを目印にご覧ください。まだ時雨には早い<ref group="注釈">『古今和歌集』恋「わが袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらん」([[よみ人しらず]])による。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 288)]]。</ref>中秋なので、紅葉もまだ青い[[稲荷山 (京都府)|稲荷山]]です。
[僧]風が吹く夕暮れ時、行く雲の端に、梢がまだ青い秋の様子なのは。
[老人]今は秋ですが、春は花で知られる藤の森<ref group="注釈">稲荷山の南、[[深草]]の[[藤森神社]]付近の地名。[[#伊藤|伊藤 (1986: 404)]]。</ref>です。
[僧]青い空のもと、青々とした野山に続く里は何ですか。
[老人]あれこそ、「夕されば」
[僧]「野辺の秋風」
[老人]「身にしみて」
[僧]「鶉鳴くなる」
[老人]「深草山よ」<ref group="注釈">『[[千載和歌集]]』秋「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」([[藤原俊成]])を引く。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 288)]]。</ref>と詠まれた深草山です。
――それに続いて[[桃山丘陵|木幡山]]、[[伏見区|伏見]]の竹田、[[淀]]、[[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]も見えている。
(後略)}}
その後は、都の西方に見える[[小塩山]]、その北側の[[嵐山]]と案内し、月に見とれているうちに、老人は我に帰り、潮を汲む。そう思うと、老人の姿は消えてしまった(中入り)。
{{Verse translation|シテ〽{{Ruby|興|きょう}}に乗じて
地謡〽身をばげに、忘れたり秋の夜の、長物語よしなや、まづいざや{{Ruby|潮|しお}}を汲まんとて、持つや田子の浦、{{Ruby|東|あずま}}からげの{{Ruby|潮衣|しおごろも}}、汲めば月をも、袖に{{Ruby|望潮|もちじお}}の、{{Ruby|汀|みぎわ}}に帰る波の{{Ruby|夜|よる}}の、老人と見えつるが、潮曇りにかきまぎれて、跡も見えずなりにけり、跡をも見せずなりにけり<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 284)]]。</ref>
|[老人]興に乗って
――実に我が身を忘れてしまっていた。秋の夜の長物語をしても仕方ない。さあ、まずは潮を汲もう。と言って、{{Ruby|担桶|たご}}を持ち、衣の裾をからげ、潮を汲むと、濡れた衣の袖に月が映る。汲んだ潮を持って望潮(旧暦十五日の潮)の波打ち際に帰ってくる。波が打ち寄せる夜の中、老人の姿が見えていたが、潮煙にまぎれて、姿が見えなくなってしまった。}}
 
==解説= 間狂言 ===
僧のもとに、近くに住む都人(アイ)が現れ、融の大臣が、陸奥の塩竈の景色が素晴らしいと聞き、これを都に移そうと思われ、多くの人足を使って難波の浦から毎日海水を汲んでこさせ、ここ河原院の邸宅に庭園を造ったこと、籬が島という島に舟を寄せては詩歌を楽しんだこと、融の没後は庭が荒れ、その様子を紀貫之が歌に詠んだことなどを語る<ref>[[#伊藤|伊藤 (1986: 405-06)]]、[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 284-85)]]。</ref>。
[[源融]]([[822年]] - [[895年]])は[[嵯峨天皇]]の十二男で、臣籍降下して従一位左大臣にまで登った実在の人物。六条に築いた邸宅・河原院に塩竈の光景を写して風流三昧に耽った、との逸話は、古く「[[古今和歌集]]」所載の[[紀貫之]]の歌(君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな)や、「[[伊勢物語]]」81段などに伝えられている<ref name="koyama_569">[[#小山|小山(1989)]]、p.569</ref>。
 
=== 後場 ===
「融」ではこうした説話に基づき、融は気品ある風流な貴人として描かれている。そんな融の花やかな舞と、荒廃した河原院跡の哀しさ、という対照的なモチーフを美しい叙景描写でつないだ巧みな構成、そして詞章は、数ある能の中でも優れた一曲との評価が高い<ref name="yokomichiomote_295">[[#横道・表|横道・表(1960)]]、p.295</ref>。
==== 待謡 ====
僧は、河原院で旅寝をする。
{{Verse translation|ワキ〽磯枕、苔の衣を片敷きて、苔の衣を片敷きて、岩根の{{Ruby|床|とこ}}に夜もすがら、なほも{{Ruby|奇特|きどく}}を見るやとて、夢待ち顔の旅寝かな、夢待ち顔の旅寝かな<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 285)]]。</ref>
|[僧]磯辺に、僧衣を片敷いて、一晩を過ごし、再び奇特を見ることができるかと思い、夢待ち顔で旅寝をすることだ。}}
 
==== 融の大臣の亡霊の登場 ====
大正 - 昭和期の名手として知られた能楽師・[[櫻間弓川]]も本曲を好きな能の1つとして挙げる。著書の中で弓川は、少ない登場人物など簡素な構成でありながら、「喜怒哀楽の複雑な感情」を深く表現した、「能本来の精神を最もよく表現してゐる能」と賞賛している<ref name="sakurama_116-117">[[#櫻間|櫻間(1948)]]、pp.116-117</ref>。
僧のもとに、融の大臣の亡霊(後シテ)が現れる。後シテは、中将(または今若)の面、初冠、単[[狩衣]](または[[直衣]])、[[指貫 (衣服)|指貫]]、扇の出で立ちである<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 285)]]。</ref>。
{{Verse translation|シテ〽忘れて年を経しものを、またいにしへに帰る波の、{{Ruby|満|み}}つ塩竈の浦人の、今宵の月を陸奥の、千賀の{{Ruby|浦廻|うらわ}}も遠き世に、その名を残す{{Ruby|公卿|もうちきみ}}、融の大臣とはわがことなり、われ塩竈の浦に心を寄せ、あの籬が島の松蔭に、明月に舟を浮かめ、{{Ruby|月宮殿|げつきうでん}}の{{Ruby|白衣|はくえ}}の袖も、{{Ruby|三五夜中|さんごやちう}}の新月の色
|[融]思い出すこともなく年月が経ったが、再び昔に立ち帰る。満ち潮の塩竈の浦人として今宵の月を見る。陸奥の千賀の浦は遠いが、遠い後の世までその名を残している公卿、融の大臣とは私のことだ。私は塩竈の浦に心を寄せ、あの籬が島の松陰に、明月のもと舟を浮かべた。月の宮殿の白衣の天人の袖<ref group="注釈">月宮殿の白衣の天人15人、青衣の天人15人の交代により月の満ち欠けがあるという伝説([[恵心僧都]]『三界義』)による。[[#伊藤|伊藤 (1986: 407)]]。</ref>も、十五夜に出たばかりの月の色だ<ref group="注釈">『[[和漢朗詠集]]』十五夜「三五夜中新月色、二千里外故人心」([[白楽天]])。[[#伊藤|伊藤 (1986: 407)]]。</ref>。}}
 
==== 融の大臣の亡霊の舞 ====
室町期から盛んに上演されており<ref name="ito_498">[[#伊藤|伊藤(1986)]]、p.498</ref>、現在もシテ方5流のすべてで現行曲として扱われる。また、末尾の「この光陰に誘はれて、月の都に、入り給ふよそほひ、あら名残惜しの面影や」の詞章から、故人追善のための演能でしばしば舞われる<ref name="koyama_569" />。
融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。
{{Verse translation|シテ〽{{Ruby|千重|ちえ}}振るや、雪を廻らす雲の袖
地謡〽さすや桂の枝々に
シテ〽光を花と散らすよそほひ
地謡〽ここにも名に立つ白河の波の
シテ〽あら面白や{{Ruby|曲水|きょくすい}}の盃
地謡〽受けたり受けたり{{Ruby|遊舞|いうぶ}}の袖<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: )]]。</ref>
|[融]舞いながら何度も振る袖、そして幾重にも降り積む雪。
――袖をさすと、さし交わす桂の枝々に
[融]月の光が花のように散らされる風情。
――ここ都にも陸奥の[[白河の関|白河]]と同じ有名な[[白川 (淀川水系)|白川]]があり、その波が
[融]ああ趣深い、[[曲水の宴]]の盃。
[融]盃を受け、遊舞の袖が月の光を受ける。}}
こうして、融の大臣の亡霊(後シテ)は、[[舞事|早舞]]を舞う。
 
==作者== 終曲 ====
融の大臣の亡霊は、名残を惜しみながら月の都に帰っていく。
[[世阿弥]]の子・[[観世元能]]の著書『[[申楽談儀]]』には、「塩釜」の名で本曲が世阿弥の作品として紹介されている。世阿弥自身の著書『[[音曲口伝]]』でも本曲の一節がやはり「塩釜」の題で引用されており、作者が世阿弥であることは確実視されている。なお曲名については、世阿弥の孫・[[金春禅鳳]]([[1454年]] - [[1532年]]?)の頃には「融」と呼ばれるようになっていたらしい<ref name="ito_497">[[#伊藤|伊藤(1986)]]、p.497</ref>。
{{Verse translation|地謡〽あら面白の{{Ruby|遊楽|いうがく}}や、そも明月のそのなかに、まだ{{Ruby|初月|はつづき}}の宵々に、影も姿も少なきは、いかなる謂はれなるらん
シテ〽それは{{Ruby|西岫|さいしう}}に、入り日のいまだ近ければ、その影に隠さるる、たとへば月のある{{Ruby|夜|よ}}は、星の薄きがごとくなり
地謡〽青陽の春の始めには
シテ〽霞む夕べの遠山
地謡〽{{Ruby|黛|まゆずみ}}の色に三日月の
シテ〽影を舟にもたとへたり
地謡〽また水中の遊魚は
シテ〽釣り針と{{Ruby|疑|うたご}}ふ
地謡〽{{Ruby|雲上|うんしょう}}の飛鳥は
シテ〽弓の影とも驚く
地謡〽一輪も{{Ruby|降|くだ}}らず
シテ〽{{Ruby|万水|ばんすい}}も昇らず
地謡〽鳥は池辺の樹に宿し
シテ〽魚は月下の波に伏す
地謡〽聞くともあかじ秋の夜の
シテ〽鳥も鳴き
地謡〽鐘も聞こえて
シテ〽月もはや
地謡〽影傾きて明け方の、雲となり雨となる、この光陰に誘はれて、月の都に、入りたまふよそほひ、あら名残り惜しの面影や、名残り惜しの面影<ref>[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 286-87)]]。</ref>
|――ああ趣のある舞だ。それにしても明月といっても、まだ新月から間もない頃の月が、宵々、光も形も小さいのは、どういうわけだろうか。
[融]それは西の山に、入り日がまだ近くにあるので、その光に月が隠されるのだ。たとえば、月のある夜は星の光が薄いのと同じである。
――春の始めには
[融]春霞で夕方の遠山がかすんで見える。
――その遠山は眉のように見え、三日月のようにも見える<ref group="注釈">遠山を月(娥)に例えるのは、『[[和漢朗詠集]]』妓女「宛転双娥遠山色」([[白楽天]])による。[[#伊藤|伊藤 (1986: 408)]]。</ref>。
[融]三日月の形は舟にもたとえられている。
――また、水中に遊ぶ魚は
[融](三日月を見て)釣り針かと疑い、
――雲の上を飛ぶ鳥は
[融](三日月を見て)弓の姿かと驚く<ref group="注釈">17世紀初頭・朝鮮の『百聯抄解』に「月鉤蘸水魚驚釣、煙帳横山鳥驚羅」との句がある。[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 289)]]。</ref>。
――しかし月は水に降ることはなく
[融]月を映す水も天に昇ることはない。
――鳥は池のほとりの樹にとまり
[融]魚は月下の波の下にひそむ。
――話を聞いても飽きることがない秋の夜だが
[融]夜明けを告げる鳥が鳴き
――夜明けの鐘も聞こえて
[融]月も早くも
――傾いてきて明け方となり、夢とも現とも分からない。この月の光に誘われて、融の大臣は月の都にお帰りになる様子だ。ああ名残り惜しげな姿だ。}}
 
== 作者・沿革 ==
上記の通り、当時の注釈書などに記された融の河原院造営に関する説話をベースとしているものの、その依拠の部分は比較的小さい。本作の作品世界そのものは、作者である世阿弥の美意識に基づく創作と見なすべき、と能楽研究者の[[伊藤正義]]は指摘する<ref name="ito_497"></ref>。
[[世阿弥]]の子・[[観世元能]]の著書『[[申楽談儀]]』には、「塩竈」の名で本曲が世阿弥の作品として紹介されている。世阿弥自身の著書『[[音曲口伝]]』でも本曲の一節がやはり「塩竈」の題で引用されており、作者が世阿弥であることは確実視されている。曲名は、元来「塩竈」と呼ばれていたようで、[[金春禅竹]]も「塩竈」と呼んでいるが、禅竹の孫・[[金春禅鳳]]は「とをる」と記しており、この頃には曲名が変わっていたようである<ref>[[#伊藤|伊藤 (1986: 496)]]、[[#能を読む②|梅原・観世監修 (2013: 277)]]。</ref>。
 
『[[伊勢物語]]』や『[[古今和歌集]]』に記された融の河原院造営に関する説話をベースとしているものの、その依拠の部分は比較的小さい。本作の作品世界そのものは、作者である世阿弥の美意識に基づく創作と見なすべき、と能楽研究者の[[伊藤正義]]は指摘する<ref>[[#伊藤|伊藤 (1986: 496-97)]]。</ref>
一方、世阿弥の父・[[観阿弥]]が、やはり融を題材としたと見られる「融の大臣の能」を舞ったという話が『申楽談儀』にある(曲自体はすでに散佚)。「融の大臣の能」と「融」の関係については、「全くの別曲」「『融の大臣の能』を改作したのが今の『融』」と、意見が分かれる<ref name="ito_497" />。
 
一方、世阿弥の父・[[観阿弥]]が、やはり融を題材としたと見られる「融の大臣の能」を舞ったという話が『申楽談儀』にある(曲自体はすでに散佚)。「融の大臣の能」と「融」の関係については、「全くの別曲」「『融の大臣の能』を改作したのが今の『融』」と、意見が分かれる<ref name="ito_497">[[#伊藤|伊藤 (1986: 497)]]。</ref>。
前述の伊藤は、「融の大臣の能」は、『[[江談抄]]』などにある、「河原院に滞在する宇多法皇と御息所の前に融の亡霊が現われ、御息所を奪おうとするも失敗する」との説話を元にした能だったとし、融が御息所への邪恋を訴える場面の一部が、現「融」で前ジテがかつての河原院を懐かしむ場面に引き継がれたのでは、と推測している<ref name="ito_497" />。事実だとすれば、女性への恋慕が、邸宅への執心にスライドした形になる。
 
前述の伊藤は、「融の大臣の能」は、『[[江談抄]]』などにある、「河原院に滞在する[[宇多天皇|宇多法皇]]と御息所の前に融の亡霊が現われ、御息所を奪おうとするも失敗する」との説話を元にした能だったとし、融が御息所への邪恋を訴える場面の一部が、現「融」で前シテがかつての河原院を懐かしむ場面に引き継がれたのでは、と推測している<ref name="ito_497" />。事実だとすれば、女性への恋慕が、邸宅への執心にスライドした形になる。
==小書==
 
== 特色・評価 ==
[[源融]]([[822年]] - [[895年]])は[[嵯峨天皇]]の十二男で、臣籍降下して従一位左大臣にまで登った実在の人物。六条に築いた邸宅・河原院に塩竈の光景を写して風流三昧に耽った、との逸話は、古く『[[古今和歌集]]』所載の[[紀貫之]]の歌(君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな)や、『[[伊勢物語]]』81段などに伝えられている<ref name="koyama_569">[[#小山|小山 (1989: 569)]]。</ref>。
 
「融」ではこうした説話に基づき、融は気品ある風流な貴人として描かれている。そんな融の花やかな舞と、荒廃した河原院跡の哀しさ、という対照的なモチーフを美しい叙景描写でつないだ巧みな構成、そして詞章は、数ある能の中でも優れた一曲との評価が高い<ref name="yokomichiomote_295">[[#横道・表|横道・表 (1960: 295)]]。</ref>。
 
大正 - 昭和期の名手として知られた能楽師・[[櫻間弓川]]も本曲を好きな能の1つとして挙げる。著書の中で弓川は、少ない登場人物など簡素な構成でありながら、「喜怒哀楽の複雑な感情」を深く表現した、「能本来の精神を最もよく表現してゐる能」と賞賛している<ref name="sakurama_116-117">[[#櫻間|櫻間 (1948: 116-17)]]。</ref>。
 
室町期から盛んに上演されており<ref name="ito_498">[[#伊藤|伊藤 (1986: 498)]]。</ref>、現在もシテ方5流のすべてで現行曲として扱われる。また、末尾の「この光陰に誘はれて、月の都に、入り給ふよそほひ、あら名残惜しの面影や」の詞章から、故人追善のための演能でしばしば舞われる<ref name="koyama_569" />。
 
== 小書 ==
多くの[[小書]](特殊演出)があり、「思立之出」(観世流・喜多流)、今合返(観世流)、替(大蔵流)、「白式」(観世流)、「窕(クツロギ)」(観世流・宝生流・金剛流)、「舞返」(観世流)、「十三段之舞」(観世流・金剛流)、「舞留」(観世流)、「袖之留」(金剛流)、「笏之舞」(宝生流・金春流・喜多流)、「酌之舞」(観世流)、「曲水之舞」(喜多流)、「遊曲」(宝生流・金春流・金剛流・喜多流)、「遊曲之伝」(喜多流)、「舞働」(観世流)、「彩色」(観世流)、脇留(観世流・金剛流)がある<ref name="matsumoto_110" />。
 
==出典 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{Reflist|group="注釈"}}
 
==参考文献= 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author= [[松本雍]]|editor= [[西野春雄]]・[[羽田昶]]編|title= 能・狂言事典|year= 1987|publisher= [[平凡社]]|chapter= 融|ref=松本}}
* {{Cite book|和書|author= [[伊藤正義]]|title= 謡曲集 中|year= 1986|publisher= [[新潮社]]|series= [[新潮日本古典集成]]|ref=伊藤}}
* {{Cite book |和書 |author=[[梅原猛]]・[[観世清和]]監修、[[天野文雄]]・[[土屋恵一郎]]・[[中沢新一]]・[[松岡心平]]編集委員 |title=能を読む② 世阿弥――神と修羅と恋 |year=2013 |publisher=[[角川学芸出版]] |isbn=978-4-04-653872-7 |ref=能を読む②}}
* {{Cite book|和書|editor= [[小山弘志]]編|title= 能・狂言 VI 能鑑賞案内|year= 1989|publisher= [[岩波書店]]|series= [[岩波講座]]|ref=小山}}
* {{Cite book|和書|author= [[横道萬里雄]]・[[表章]]|title= 謡曲集 上|year= 1960|publisher= [[岩波書店]]|series= [[日本古典文学大系]]|ref=横道・表}}
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[[Category:能の演目]]