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[[249年]](正始10年)[[1月6日 (旧暦)|正月(1月)6日]]、曹爽・[[曹羲]]兄弟が皇帝の墓参りのお供をして出かけたのを見計らい、司馬懿は抱き込んだ[[明元皇后郭氏|郭皇后]]の命で兵馬を指揮して、[[洛陽]]の武器庫を占拠し城を閉門させ[[クーデター]]を起こした。側近の[[桓範]]は、曹家所縁の[[許昌]]に拠って兵馬を募り、併せて食糧徴発権を持つ[[大司農]]の[[印章]]を提示して司馬懿との決戦を主張したが、先手を取られた曹爽は、「私は[[富豪]]でいられるのならば、司馬懿に降伏してもいい」と述べ、司馬懿から軍籍解任と引き換えに罪を許すと言われると、戦意を失い降伏した([[高平陵の変]])<ref>『魏氏春秋』では、曹爽の対応を聞いた桓範は「曹子丹(曹真)は立派なお方だったが、その子である曹伯昭(曹爽)兄弟は、畜生も同然だ。私がこのような連中に連坐させられて、処刑される憂き目に遭うなど夢にも思わなかった」と嘆いたと記されている。</ref>。しかし司馬懿は曹爽兄弟を解任したばかりでなく、軟禁して徹底的な監視下に置き、食料の買出しさえも自由にさせなかった。そこで司馬懿に殺意があるのか窺う意味も込めて、食料の差入を申し入れると、すぐ食料が届けられたため、曹爽たちは安心した。
 
しかし[[1月10日 (旧暦)|正月10日]]になり、[[宦官]][[張当]]の「曹爽らが3月に謀反を計画していた」という自白を根拠に、魏の皇室の分家筋<ref>『魏志』曹真伝付曹爽伝</ref>の曹爽一族を警戒した司馬懿父子によって何晏らと共に謀反を企てた疑いで投獄され、即日三族皆殺しの刑に処せられた。
 
皇族[[曹氏]]の勢力はこれ以降衰退し、司馬懿の一族が事実上の支配権をもつことになった。