「ナポレオン三世の馬」の版間の差分

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=== 若紫 ===
若紫は『宮内省より乗馬車の義掛合』<ref name="asia"/>で、1874年12月、陸軍省より宮内省に献上された「西洋種乗馬若紫」と考えられる。不用となり、1877年10月、陸軍への下渡しが決定されたとあり、前述の鼓の話は1874〜1877年の間と考えられる。
『取調書』には、1874年(明治7年)、亜喇比亜から陸軍省の購入として、「星栗毛 若紫 牡 同7年宮内省へ献納 同10年返付 同11年宮城縣へ貸付」とあり、年号も含め内容が一致する。牡で星栗毛はアラビア名ムーバレック フランス名ベニーだけである。

『取調書』には、明治7年、亜喇比亜から陸軍省の購入として他に牝4頭の記載がある。若紫も含めた5頭のうち、購入金額が記してあるのは牝1頭だけのため、牝3頭は明治7年の輸入ではなく、その前に日本に持ち込まれており、確認が明治7年とした方が整合性が高く、若紫同様、当記事に該当する馬の可能性があるが、断定はできない。参考として示すと、牝3頭の記述を示すと、
:無双 鹿毛明治9年茨城県へ貸与同年返11年鹿児島県へ貸与、
:濱名 黒鹿毛明治7年水沢県へ貸与後宮城県へ引継、
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:三島と一致する栗毛の牝は、アンマンスであるが、アンマンスはほぼ高砂と特定できるため、流星栗毛のヤミナの可能性が高い。絞り込める条件が他になく、濱名とともに、他より可能性が高いとするにとどまる。
 
=== 富士越 ===
『取調書』には、亜喇比亜より開拓使管理局及北海道庁購入として、
:明治元年 牝栗毛 富士越
の記載もある。村上要信は、明治元年は2年の誤りかも知れないとしているが、いずれも、開拓使の発足前である。前述の日本馬事協会『70年の歩み』によれば、明治元年は富士越を函館大経が引取った年であり、毛色・性別も一致する。流星栗毛の牡は糟栗毛流星とあるムーソーだけである。
 
:今井吉平1910年『馬政学』<ref name="ndl"/>に、馬は1861年(文久元年)日本着、カヅヌーフが付添って来たが、当事馬匹改良の必要性を知らず徒に権門貴顕に与えてしまった、内一頭の牝巴里(アイヨンデール)号は1894年(明治27年)37歳で斃死した等とあり、『取調書』と似た馬の一覧の表がある。フランス名のイロンデールをアイヨンデールとした点から見て、今井吉平にはフランス語の知識がなく、和訳された表をカタカナからカタカナへ英語読みで誤訳したものと推定される。1894年に37歳で斃死したなら、生年は1858年頃になるが、表には7歳とあり、1861年までに7歳になる事は不可能のため、今井は算数も苦手だったと考えられ、本項の馬に関しては『馬政学』は信憑性に欠ける。馬の散逸の時期としては、維新の前か最中が考しかありられるない
維新前、幕末とは言え、将軍の馬を他人が勝手に乗用にできるはずはない。幕府による馬の重視とカズヌーフの重用なしでは、カズヌーフが伝習隊で乗馬等を指導し、後に[[箱館戦争]]において重傷を負うまで幕府側について戦った事<ref name="naj"/><ref>明治3年7月『仏人ブリユネー等賊軍ニ党与ニ付仏国政府ニ於テ其罪ヲ罸セシム』、アラビヤ馬医カツノフとある。</ref>、大鳥圭介が『南柯紀行』で、函館へ向かう途中、仙台で旧師に再会し互いに感激した旨を記した事が説明しにくい。
小金牧の厩舎は幕府の脱走諸隊が通った、水戸街道、市川-流山の街道、戦闘があった鎌ヶ谷、市川、船橋から近く、維新の最中、「賊軍」の略奪にあった可能性が最も考えやすい。実際に前述の通り、一部の略奪は維新の時で、今井吉平は事情を知らなかったばかりか、武家社会、江戸近郊の地理、幕末〜維新の歴史に対する常識にも欠け、この点でも信憑性がない。
1899年(明治32年)陸軍騎兵実施学校『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』に、日本到着は1863年(文久3年)とした後、鼓談話の引用と見られる記述があるが、散逸の時期が判る部分は割愛されている。その後、ナポレオン三世の馬についてまとめられているため、重複も含めて示す。「慶応年間若干頭は薩摩に牽入れたるは更に疑無きが如きも確証なし。明治4年中は大蔵省牧畜掛所管の雉子橋官邸に未だ数頭養畜せられ居りたるも後ち行く所を詳かにせず。星青毛牝「パリス」号(明治4年雉子橋官邸に養われしものの1疋)は一時駒場農学校に畜養せられ後ち上野動物園に移され明治27年に斃れたり本馬は嘗て流産せし後遂に受胎せず。」ほかに、若紫が明治初年に兵部省、後、宮内省に移された事と「アマドー」(馬術教師)の記述がある。兵部省は明治元年には存在せず、明治初年は明治の初め頃を指す事になる。