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[[耶律撒剌的]]の四男として生まれた。太祖5年([[911年]])、兄の[[耶律剌葛]]・[[耶律迭剌]]や弟の[[耶律安端]]らとともに阿保機に対する反乱を計画した。安端の妻の粘睦姑の密告で露見したが、阿保機は弟たちを処刑するに忍びず、弟たちとともに山に登って生け贄を捧げ、天地に誓って罪を許した。
 
太祖6年([[912年]])、また剌葛・迭剌・安端らとともに阿保機に叛いた。太祖7年([[913年]])、兄弟たちとともに西山で阿保機の帰路を遮ろうとした。阿保機が西山を避けて赤水城にいたったので、寅底石は阿保機に謝罪し、許された。しかしまた兄にそむき、剌葛とともに楡河に逃走した。自殺しようとして死ねず、捕らえられた。[[神冊]]3年([[918年]])、阿保機の命により寅底石の妻の涅里袞が自縊した。
 
[[天顕]]元年([[926年]])、[[渤海 (国)|渤海]]に対する征戦に従い、扶余城を陥落させると、[[耶律覿烈]]とともにここを守備した。阿保機が死去すると、遺詔により守[[太師]]・政事令となり、東丹王[[耶律突欲]]を補佐した。[[述律皇后]]により[[司徒]]の耶律画沙が派遣され、道中で殺害された。[[重熙]]年間、許国王に追封された。
 
== 子女 ==
*[[耶律劉哥]]
*耶律盆都
*耶律化葛里