「ナポレオン三世の馬」の版間の差分

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農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』<ref name="ndl">国立国会図書館蔵</ref>(1888年、以下、取調書)には「佛帝ナポレオン三世ヨリ幕府へ送付セシ馬疋毛附写」として、牡11頭・牝15頭のアラビア名・フランス名、特徴を記した、1860年フランス宮内省「カアン」育馬学校から徳川将軍への馬送付時の書付が掲載され、計26頭の記載がある。うち、牝2頭に名前の記載がなく、体高・年齢が同じで色も似ている。同書発行時、何頭かは生存とある。1896年、村上要信『日本馬匹改良策』<ref name="ndl"/>に、ほぼ同じ書付があるが、カアンがカマンになり、書付の原文ではなく『取調書』を見て、誤記または誤植が生じたとしないと説明がつかない。馬は文久元年横浜港に到着とする一方で、若干が[[雉子橋]]の厩で飼育されたのを見たとしている。カアンは1935年帝国競馬協会『競馬に関する調査報告』<ref name="ndl"/>で、「アルゼリー」に支所もあったCaenの馬の供給所と一致する。
 
1868年(明治元年)、4月12日、徳川慶喜が江戸を出て松戸宿に一泊、水戸街道を水戸に向かった。
 
江戸中野牧厩詰用所が襲撃を受け、一部のアラビア馬と西洋馬具を奪われたが、4月28日には残った馬のうち、雄10頭が騎兵屯所へ移された<ref name="chibah"/>。襲撃は慶喜の松戸宿宿泊後なら、4月12日〜27日の間である。牝については不明だが、元々、牡は11頭のため、奪われた牡は最大で1頭である。将軍の馬として江戸城に留め置かれ、小金牧に来なかった2頭のうち1頭が牡かどうかは不明である。
 
函館大経からの聞き取り資料<ref name="hakodate"/>によると、脱走の徒が馬を奪うかも知れないと心配した勝安房に命じられ、下総へ引き取りに行き、沼津近くの愛鷹牧で飼って繁殖させようとして、同所に移したとのことである。引き取りに同行した人間や、沼津に移した時期については語られていないが、馬が贈られた経緯や下総の御囲等の内容は他の信頼できる資料とよく一致する。馬を騎兵屯所に移したのが大経かは不明であれば、日付も含め他の資料の内容と一致はすが、可能性に過ぎない
 
『千葉県の歴史』では、馬が新政府の所管となったその後は不明とし、1873年にブリガッシュ・カズヌプが建白書を出し、その中で9頭を確認した事を記している。