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英米共同領有地であったオレゴン地域では肥沃な農地や毛皮獣を求めるアメリカ内部からの移住者が増加し、[[1846年]]永年の要求を貫いてイギリスとの間にオレゴン協定を結び、[[北緯49度]]をもってイギリス領[[カナダ]]との国境線を確定させた<ref name="saitoh25">[[#齋藤|齋藤(1976)p.25]]</ref><ref name="yasutake78">[[#安武|安武(1998)pp.78-79]]</ref>{{refnest|group="注釈"|アメリカの北緯49度以南の領有について、イギリスは当初アメリカの要求に応じなかったが、しだいにアメリカの要求はエスカレートし、[[1843年]]には北緯54度40分まで要求する意見さえ出て「54度40分か戦争か」というスローガンさえ唱えられた<ref name="shimizu151">[[#清水|清水(1999)pp.151-152]]</ref>。}}{{refnest|group="注釈"|オレゴン協定締結とともにイギリスでは[[穀物法]]が廃止され、アメリカではウォーカー関税引き下げ法が成立した<ref name="yasutake78" />。これにより、南北戦争直前まで、英米両国間には[[自由貿易]]主義にもとづく協調関係がつづいた<ref name="yasutake78" />。}}。
 
アメリカ人移住者たちによる併合要求のあったテキサス共和国では、1845年、ポークの就任を待たずに議会で併合が承認され、就任後正式に[[テキサス併合]]がなされた<ref name="iizuka129" /><ref name="yasutake78" /><ref name="saruya88">[[#猿谷|猿谷(1991)pp.88-89]]</ref>{{refnest|group="注釈"|テキサスはメキシコ時代に[[奴隷制度]]を廃止したが、アメリカ南部の一州となったことで奴隷制度が復活した<ref name="saruya88" />。}}。テキサスがアメリカ領になったことからアメリカ・メキシコ両国間に国境紛争が生じた<ref name="saitoh25" />。メキシコは国境線をヌエセス川と主張したが、ポーク大統領はより南の[[リオグランデ川]]であると主張した<ref name="shimizu154">[[#清水|清水(1999)p.154]]</ref>。ポーク政権はメキシコに対し、テキサス領のさらなる拡大を認めること、カリフォルニア・ニューメキシコを2,500万ドルでアメリカに譲渡すること、この2点を要求し、それをメキシコ政府が拒否したことから、19461846年5月、[[米墨戦争]]が勃発した<ref name="iizuka129" /><ref name="saitoh25" />。こうした背景には、アヘン戦争以降、英仏両国だけでなくアメリカもまた中国貿易への進出を企図し、その観点から太平洋沿岸の貿易港確保を求める声がしだいに高まっていたことが挙げられる<ref name="yasutake78" />。[[ジョン・フレモント]]は西部を探検してカリフォルニアを占領し、そこで独立運動を扇動した<ref name="saruya88" />。
 
米墨戦争は、明らかにアメリカ側の挑発によってはじめられた戦争であった<ref name="iizuka129" /><ref name="saruya88" />。ポーク大統領は、[[ウィンフィールド・スコット]]を指揮官とする大軍をメキシコに送り込んだ<ref name="iizuka129" /><ref name="yasutake78" />。スコット将軍は[[1847年]]9月に[[メキシコシティ]]を陥落させて、この戦争の勝利に貢献した<ref name="saitoh25" /><ref name="saruya88" /><ref name="shimizu154" />。米墨戦争の勝利と、それにつづく1848年2月2日の[[グアダルーペ・イダルゴ条約]]によって、アメリカは、1,825万ドル(1,500万ドルの現金と325万ドルの債務放棄)と引き替えに[[メキシコ割譲地]]を得た<ref name="saitoh25" /><ref name="shimizu154" />。これは、現在の[[カリフォルニア州]]・[[ネバダ州]]・[[ユタ州]]の全域と[[アリゾナ州]]の大部分、および[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]、[[ワイオミング州|ワイオミング]]、[[コロラド州|コロラド]]各州のそれぞれ一部にあたる広大な領域である<ref name="saitoh25" />{{refnest|group="注釈"|結果が上首尾だったことで、当時のほとんどのアメリカ人はこの戦争の原因追及をおこなわなかったが、[[エイブラハム・リンカーン]](当時、下院議員)のほか、1, 2名はポーク大統領の政治姿勢を批判した<ref name="saruya88" />。}}。アメリカはこれにより、アジア貿易の拠点たるサンフランスシコを確保した<ref name="yasutake78" />。