「八戸ノ里駅」の版間の差分

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==駅周辺==
「八戸ノ里」の駅名の由来は、この地域の開発が始まった[[江戸時代]]初期に入植した[[豊臣家]]の旧臣たち家の数が8戸であったことに由来する。ただし、この地域は[[古代]]、河俣御厨(かわまたみくりや)の一部(現在も駅の北側には御厨の地名が残存している)であり、[[室町時代]]には近隣の若江([[若江岩田駅]]南)に[[河内国]][[守護]]の[[畠山氏]]の居城である[[若江城]]があり、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]には[[カトリック教会|カトリック]]の[[宣教師]]によって若江城およびその城下の繁栄が記されているなど比較的早い時期から開発されていたと思われる。ただし、近年の研究で[[大坂の役|大坂の陣]]の際に、[[淀川]]の[[堤防]]が決壊し、この地域も一時的に沼地と化したとされることから、この時期に以前にこの地にいた住民は他所へ移り、その後、沼地となったこの地域を開発したのが上記の8戸の家々であった可能性が指摘されている。[[1950年代]]半ばまでは辺り一面何もない田園地帯であったが、今では住宅や中小ビルがびっしりと建て込み、雑然とした町並みで、再開発の動きもない。
 
[[東花園車庫]]が出来る([[1967年]])まで、八戸ノ里に車庫があった。[[河内小阪駅]]にあった車庫を移転させたものである。[[東花園駅]]への再移転後、跡地は近鉄により[[マンション]]が建設された。
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