「檜隈民使博徳」の版間の差分

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'''檜隈民使 博徳'''(ひのくま の たみのつかい はかとこ)とは、日本古代の官吏・側近・[[豪族]]。外交官。[[東漢氏]](倭漢氏、やまとのあやうじ)配下の[[渡来人]]([[帰化人]])系の人物。
 
== 経歴 ==
『日本書紀』巻第十四によると、[[雄略天皇]]は自分の自分の心だけで決断し、「誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し」と言われた。世の中という。天下の人たちは天皇をそしって、とても悪い天皇である、というふうに評された。そのような中で天皇が寵愛したのは、[[身狭青|身狭村主青]]と、檜隈民使博徳らのみだったという<ref>『日本書紀』、雄略天皇2年10月条</ref>。
 
上記のように、博徳は身狭青(むさ の あお)とともに雄略天皇の側近として重用され、[[史部]](ふひとべ)としてつかえた。雄略天皇8年(西暦に直すと[[464年]])と12年に青とともに呉国(くれのくに、[[華南]])に派遣され、漢織(あやはとり)、[[呉織]](くれはとり)らをつれて帰国したという<ref>『日本書紀』、雄略天皇8年2月条、12年4月4日条、14年1月13日条</ref>。
 
「[[檜隈]]」(ひのくま)とは倭漢氏が本拠とした、[[大和国]](今(現在の[[奈良県]])[[高市郡]]檜前村のことで、[[漢氏]]の本拠地である。「民使」は[[カバネ|姓]]ではなく[[氏]]であり、博徳の身分が青よりも低く、姓を持てなかったことが推察される。『[[新撰姓氏録]]』の山城諸蕃に、「民使首」は「高向村主」と同じ祖先である、という文があり、『[[続日本紀]]』や『[[正倉院文書]]』などに「民使氏」の人物が何人も登場している<ref>『続日本紀』巻第三十、[[神護景雲]]4年([[770年]])3月10日条に、「民使毗登曰理(たみのつかい ひとわたり)をかりに会賀市司(えがのいち の つかさ)に任じた」、という記述が見える。『文書』には経師の民使石山、隠岐国史生である民使古麻呂、民部省の官人である民使豊久などの名が見られる。</ref>。
 
「博徳」、「青」ともに、日本風の名前ではなく、大陸への使節となっているところから、帰化してまもない世代であり、[[倭王武]]の[[四六駢儷体]]で記された上表文の筆者と関係があることが想像される。