「高槻中学校・高等学校」の版間の差分

大阪の北東部に位置する[[高槻市]]は、[[島上郡]]の中心であり、[[江戸期]]には[[高槻藩]]3万6千石の城下町が置かれ、[[藩校]]「菁莪堂」も設けられていた。しかし、[[明治]]以降、[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]への統合以前から島下郡の[[茨木市|茨木]]にその中心性が移った。同郡西部の吹田や[[豊能郡]]の豊中・池田にも[[市制]]施行で先を越され、大阪府立中学校([[旧制中学校]]は[[義務教育]]でない上級学校([[修業年限|修業]]5年制))の誘致合戦では[[池田市]]に軍配が上がった([[1940年]]([[昭和]]15年)4月、大阪府立第十六中学校(現:[[大阪府立池田高等学校]]創立)。
 
戦前、当時の高槻町にはすでに[[JR京都線|東海道線]]と新京阪線(現:[[阪急京都本線]])が通り、ホワイトカラーが多く住んでいた住宅地である<ref name="lucky"/>。
 
中学校設置を求める島上地域の父母からの強い教育要望を受け、大阪高等医学専門学校(現:[[大阪医科大学]])理事長[[藤堂献三]]は1940年10月、[[京阪電気鉄道]]や地元の名士など多数の有志の協力を得て、三島郡[[高槻市|高槻町]][[大字]]西天川(現在地)に(旧制)「高槻中学校」を創設した。