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{{Infobox 民間人の攻撃
| 名称 = インブリー事件
| 画像 = William Imbrie4.jpg
| image_size = 200px
| 脚注 = 事件の主人公となったウィリアム・インブリー
| 場所 = {{JPN}}<br/>[[東京府]][[東京市]][[本郷区]][[弥生 (文京区)|向ヶ丘弥生町]]の向ヶ丘グラウンド
| 緯度度 = 35|緯度分 = 42|緯度秒 = 59.9|N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139|経度分 = 45|経度秒 = 40.3|E(東経)及びW(西経) = E
| 日付 = [[1890年]]([[明治]]23年)[[5月17日]]
| 時間 = 午後3時ごろ
| 開始時刻 =
| 終了時刻 =
| 時間帯 =
| 標的 = [[ウィリアム・インブリー]]([[明治学院大学|明治学院]]の[[神学部]]教授)
| 手段 = 押し問答の末、凶器で切りつける
| 兵器 =
| 武器 = 鋭利な刃物?
| 死亡 =
| 負傷 = 1名
| 行方不明 =
| 被害者 =
| 損害 =
| 犯人 = [[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]](一中)の学生
| 容疑 =
| 動機 = 外国人に対する激しい敵対心
| 攻撃人数 = 不明
| 対処 = 一中側の謝罪で終結
}}
{{Portal|野球}}
'''インブリー事件'''(インブリーじけん、{{Lang-en|'''Imbrie Affair'''}})とは、[[1890年]]([[明治]]23年)[[5月17日]]に[[日本]]の向ヶ丘グラウンドで行われていた[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]](略称:一中)対[[明治学院大学|明治学院]]の[[野球|ベースボール]]の試合中、禁制としている「神聖なる」グラウンドの[[垣根]]を明治学院教授の[[ウィリアム・インブリー]]がまたいで乗り越えたため、これに激怒した一中の学生の襲撃に遭い、顔面に重傷を負った傷害事件である。
極端な[[欧化主義|欧米化主義]]に対する反動が強まるなかで起こり、一時は国際問題に発展しそうになった。インブリーをはじめ同僚宣教師や明治学院関係者と一中幹部らが問題が拡大しないように各方面に働きかけ、一中側からインブリーへ謝罪が行われたことで収束に向かった。
== 背景 ==
[[ファイル:Kinoshita Hiroji3.jpg|right|200px|thumb|「校外一歩皆な敵」との認識を表明し、「籠城主義」を採用した第一高等中学校校長の[[木下広次]]]]
[[プリンストン大学]]では早くも1865年ごろには学内クラス対抗や寄宿舎ルーム対抗の[[野球|ベースボール]]の試合が行われるようになったが、「インブリー事件」の主人公となる[[ウィリアム・インブリー]]もこの時期に同大学で[[野球|ベースボール]]をプレーした学生の一人であった<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.116</ref>。『明治学院沿革略』(1917年)には、1884年([[明治]]17年)に[[東京一致英和学校]]の[[予科]]として設立された英和予備校でインブリーが[[ジョージ・ウィリアム・ノックス]]らとともに、学生たちにベースボールの指導を試みたことが書かれている<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.116-117</ref>。[[明治学院大学|明治学院]]ベースボールチーム([[明治学院大学硬式野球部|白金倶楽部]])でも同様に外国人教授らの指導が行われており、本場仕込みの高度な技術を習得した[[学生野球|学生ベースボール]]トップクラスの強豪チームとして知られていた<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.117</ref>。
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]](略称:一中)は1890年(明治23年)から全寮制となり、ベースボール会会員が多数入部したため、これに影響された他の寮生たちも多数ベースボール会に入部して校内でベースボールが急激に盛んになった<ref name="菅野4">[[#菅野(2003)|菅野(2003)]] p.4</ref>。また、入寮制が義務づけられたことで登下校の時間が短縮され、その分ベースボールに費やす時間が飛躍的に増加することになった<ref>[[#小関(2013)|小関(2013)]] p.49</ref>。一中チームは1890年4月中旬に[[東京商科大学 (旧制)|高等商業学校]]{{#tag:ref|[[一橋大学]]の前身<ref>[[#広瀬(1964)|広瀬(1964)]] 「日本の野球発達史」p.5</ref><ref>[[#佐山(1998)|佐山(1998)]] p.55</ref>。|group=#}}チームを向ヶ丘グラウンドで迎えて新進選手を中心として編成したチームで試合を行い、30点の大差で勝利した<ref>[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.99</ref>。同じ4月に[[駒場農学校]]との試合に負けた明治学院チームは雪辱戦に備えるためにまず格下の一中チームを選び試合を申し込むが、この両校の試合中に事件は起こった<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.117</ref>。
一中の学生が[[帝国大学#東京|帝国大学]]へ入学するのにほとんど無条件であったためにエリート意識に固まり、かつ[[国粋主義]]を鼓舞する者も少なくなかったのに対し、明治学院は[[キリスト教]]の教えを教育理念とする[[キリスト教主義学校|宗教学校]]であり、両校は思想的には対極の間柄にあった<ref>[[#池井(1976)|池井(1976)]] p.32</ref>。実際には明治学院の選手は全員[[日本人]]であったが、一高卒業生の[[本荘可宗|藻岩豊平]]が書いた『一高魂物語』(1925年)には、当時の一中の選手がいかに明治学院チームを敵対視していたかについて書かれている<ref>[[#星(2013)|星(2013)]] pp.198-200</ref>。
{{quotation|''当時、白金倶楽部はアメリカ人教師たちによって教育された強チームであった。彼等は教育に於いても全部、アメリカニズムの教養を受けていた。所詮彼等のうちの日本人といえども一種のアメリカ人だったのである。一高はこの点に於いてすでに敵に対して憤懣を抱いていた。白金倶楽部の選手は日米人の混合であって、その主将はもちろん、マネージアも皆アメリカ人であった。一高は彼等が如何に技に於いて優れていても、意気に於いて敵軍を撃滅しなければ気が済まなかった。''<ref>[[#藻岩(1925)|藻岩(1925)]] p.101</ref>}}
「インブリー事件」が起こる直前の1890年4月4日夜に二人組強盗によって[[麻布区]]にある[[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学校]]校長の夫、T・A・ラージが斬殺されて校長のラージ夫人も重傷を負った「ラージ事件」と<ref>[[#工藤(1975)|工藤(1975)]] p.187</ref>、同年5月7日に[[イギリス人]]の英語教師、{{仮リンク|ジェームズ・サマーズ|en|James Summers}}が[[英照皇太后|皇太后]]の行列に[[不敬]]があったとして、供奉(ぐぶ)[[騎兵]]の[[槍]]で顔面に軽傷を負ったことを発端とした「サンマー事件」が発生している<ref>[[#工藤(1975)|工藤(1975)]] pp.187-189</ref>。
== 事件発生 ==
{{multiple image
|direction=vertical
|width=300
|footer=[[第一高等学校野球部|第一高等中学校ベースボール会]]の会員(上)<br />[[明治学院大学硬式野球部|明治学院白金倶楽部]]の会員(下)
|image1=First Higher School Baseball Club.jpg
|image2=Meiji Gakuin University Baseball Club.jpg
}}
第一高等中学校ベースボール会対明治学院白金倶楽部のベースボールの試合<ref>[[#大和(1977)|大和(1977)]] pp.39-40</ref>は[[1890年]][[5月17日]]に向ヶ丘のグラウンドで行われた。興味を持って応援に駆けつけた明治学院[[神学部]]教授のウィリアム・インブリーが試合開始時間に遅れて到着したために入り口が分からず[[垣根]]を越えてグラウンドに入ったところ、一中応援団が直ちに彼を取り囲み、押し問答を繰り返すうちに、生徒の一人が凶器で彼の顔面に重傷を負わせる事件が発生した<ref>[[#中島(2003)|中島(2003)]] p.143</ref>。
この試合は序盤から明治学院が一中を圧倒し、6[[イニング|回]]には6-0と大差をつけてリードしていた<ref name="菅野4" />。同じ日に一中では[[柔道]]の大会が行われたためにそれを終えた柔道部員も観客に混じっていたが、彼らを含む一中応援団は味方の明らかな劣勢にいら立っていた。そんな状況でインブリーが禁制の垣を踏み越してグラウンドに入ったので、ついにその怒りが爆発してしまった<ref name="君島62">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.62</ref>。「神聖な垣根をまたいで入るとは何事か」と柔道部員が真っ先に詰め寄り、寮生もこれに加わった<ref name="小関50">[[#小関(2013)|小関(2013)]] p.50</ref>。
トラブルが発生して、試合は30分にわたって中断する<ref>[[#横田(1995)|横田(1995)]] p.263</ref>。明治学院側はその後、自校の選手が右手に大怪我をしたことなどを理由に試合の中止を求めたので、一中側もこれを承諾して[[ノーゲーム]]となった<ref name="菅野4" />。なお、4月の商業校試合のことは記事もなければ出場選手の名も残されていないため、この試合に出場したチームが一高野球部初代の選手として記録されることになった<ref>[[#君島(1972)|君島(1972)]] pp.62-63</ref>。
この事件を明治文化史研究者の[[横田順彌|横田順弥]]は「日本最初の野球大事件」<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.56</ref>、野球史研究者の[[大和球士]]も「明治野球史上の大事件」<ref name="大和33">[[#大和(1977)|大和(1977)]] p.33</ref>とそれぞれ位置づけており、『歴史ポケットスポーツ新聞 野球』の中村哲也は「ベースボール版[[生麦事件]]」と称している<ref>[[#中村(2007)|中村(2007)]] p.10</ref>。野球史の分野で取り上げられることも多いが、大半は通説の重複にとどまるものである<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.115</ref>。通説とは食い違う証言もいくつかあり、100年が経過しても、事件の真相は完全には判明していない<ref>[[#横田(1995)|横田(1995)]] p.267</ref>。
『一高魂物語』(先輩、寮生の希望者の他に一高志願の年少者に読ませた書物)では「イムブリー事件」の章をもうけているが、そのなかに「向陵の垣根、精神の境界」の一節があり、当時の一中の精神的風土の一面として、「垣根神聖論」が語られている<ref>[[#大和(1977)|大和(1977)]] p.34</ref>。向陵(一中の寮)の垣根は精神の境界だと書いている<ref name="横田264">[[#横田(1995)|横田(1995)]] p.264</ref>。
{{quotation|''向陵の垣根! おおこの垣根。彼等一高の健児にとってはただの垣根ではなかった。(中略)おおそれこそ彼等の魂の垣根であった。精神の高貴なる道場として俗塵の世と分つべく劃されたる心霊の垣根であった。常に入寮日にあたって委員が壇上、新入生を面前にして、荘厳なる語調で弁解最も努めるのはこの垣根の意味を新入生に説き聞かせることではないか! 一高が篭城の覚悟を以てその遥遠なる自治領の理想へ出発して以来、向陵にとって精神的に飽くまで守護され記憶されねばならなかったのは、この垣根ではなかったか。''<ref>[[#藻岩(1925)|藻岩(1925)]] pp.104-105</ref>}}
続く「血汐はさっとあたりに散った」の項では、事件の模様を下記のように記述している。試合で[[投手]]を務めた岩村、正しくは[[岩岡保作]]が[[バット (野球)|バット]]でインブリーを殴って傷をつけたとあるが、インブリーに傷をつけた凶器については、資料によっていくつもの説があって、はっきりしない<ref name="横田264" />。『真説日本野球史 明治編』(1977年)の大和球士はこのバット説を採用しているが<ref name="大和33" />、当時の『[[東京日日新聞]]』はがれきとしているし、『[[時事新報]]』は飛んできた瓦のかけら、『校友会雑誌』は誰かが投げた石だとしており、ナイフ説を採用している英字新聞まである<ref name="横田264" />。犯人についても長らく岩岡が有力視されていたが<ref name="横田264" />、彼がインブリーを殴ったという事実もインブリー側の資料をはじめ、英字紙などには出てこない<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.139-140</ref>。
{{quotation|''白金倶楽部との試合の真最中、然も一高が常に睥視する『毛唐』が、この大事な垣根を跨いて入ってきたのである。一高の委員は直ちに起こって走って入った。一高は亳も仮借しはせぬ。この垣根をなぜ跨いて入る。無礼しやるかと委員は英語で叱責した。続いてその一大洋漢へ向けて走り集った柔道部の猛者も、『一高は断じて許すことは出来ぬ。向陵名物、―健児の鉄拳を君に報いねばならぬ』と怒鳴った。この巨大な洋漢は、この憤激した若者たちに取り巻かれて何の事やら解らなかった。しかし、あくまで『矮小なるジャップ』と見くびってはいた。平然として、『俺は試合を見に来たのぢゃ。明治学院のイムブリー博士とは俺のことぢゃ』とせせら笑った。(中略)愛寮の熱血は垣根を汚す者をどうして容赦し得よう。彼等の中の委員の一人、短軀にしてしかも豪胆であった一少年は二言三言。洋漢と言いあっていると見る間に、バットで彼の顔面を撲っ叩いた! 血汐はさっと洋漢の面上に散った。この少年は誰であろう、当時一高の岩村保作であった。(中略)一大事件は突発した。わが運動競技界に名高きイムブリー事件はここに始まったのである。''<ref>[[#藻岩(1925)|藻岩(1925)]] pp.106-107</ref>}}
== 事件当時の報道 ==
1890年5月18日付の『東京日日新聞』に掲載された「インブリー氏乱打せらる」を見出しとする小さな記事が事件を伝える最初の報道であった<ref name="中島114">[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.114</ref>。日本の邦字各紙『時事新報』(5月19日)、『[[報知新聞|郵便報知新聞]]』(5月21日)、『[[朝野新聞]]』(5月22日)はいずれもがれきもしくは石片が偶然インブリーの顔面を捉え、軽微ながら傷を負わせたとしている<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.118-119</ref>。邦字紙のなかには明治学院の洋化文明主義と一中の国粋主義との正面衝突などとの論評まで出てきた<ref name="君島62" />。ただし、『[[読売新聞]]』と『[[東京朝日新聞]]』は事件のことを報道しなかった<ref>[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.104</ref>。
[[横浜市|横浜]]で発行されていた外字紙も事件を積極的に報道した<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.120</ref>。外字各紙は「{{Lang|en|Affair}}」(事件)や「{{Lang|en|Disturbance}}」(騒じょう)などの表題を使い、この種の事件で見られる日本人の野蛮性を非難しており、数週間前に起きた外国人殺傷事件との関連性も指摘している<ref name="中島114" />。『ジャパン・ガゼット』紙(5月19日)は「これぞ日本人の[[排外主義|排外思想]]」と非難しただけでなく<ref name="斎藤73" /><ref>[[#島田(2001)|島田(2001)]] p.68</ref><ref name="池井31">[[#池井(1976)|池井(1976)]] p.31</ref>、[[高等中学校]]がそもそも頑迷野蛮の巣窟だと罵り、さらには一中こそは排外思想の根拠地であると決めつけたほどであった<ref name="君島62" />。
『東京日日新聞』によれば、「初めは無礼なりとて加害者を罵り、つぎに幼稚なりとて高等中学校をそしり、ついに進んで野蛮なりとて日本人を罵りて止まず」と[[日本の外国人|在日外国人]]の[[世論]]の反発もしだいにエスカレートしていった<ref name="斎藤73" /><ref name="池井31" />。
=== ジャパン・ウィークリー・メイルの取材 ===
事件後に唯一被害者のウィリアム・インブリーに直接インタビューを行い、入念な取材に基づいた報道に徹し、真相を追究した『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙の記事は事件の詳細を以下のように伝えている。
インブリーは同じ明治学院神学部教授の[[ジェームス・ランジング・アメルマン|ジェームズ・ランジング・アメルマン]]とともに明治学院チームを応援するために自宅のある築地外国人居留地から[[上野]]まで徒歩で出発し、本郷近くまできたものの正確な場所がわからず、かなりの時間を費やしてようやく運動場を見つけた。インブリーは丈の低い生垣のある土手をよじ登って運動場の片隅から試合が終盤に入ったことを確認した後、いち早く自軍の応援席に駆けつけるため、生垣を越えて運動場を横切る最短ルートを選び、う回するルートを選んだアメルマンとしばらく別れることにした。インブリーが土手の生垣を乗り越えて試合場に入り、グラウンドの隅の方を自軍のベンチに向かって早足で歩き始めたところ、応援席に座っていた12、13人の若者が他の観衆と呼応して彼をめがけて押し寄せ、その人数はあっという間に30、40人ぐらいにもなった。
{{quotation|''生徒の一人が「お前は生垣を乗り越えてきたな」と怒号を張り上げた。インブリー博士は静かに「確かに越えてきた。私は明治学院のものだ」と答えた。しかし、会話が成り立つ前にインブリーは群集に取り囲まれ、そのうちの二、三人の生徒は明らかに興奮し、インブリー博士の顔面に平手打ちを加え、胸倉をつかんで腹部に足蹴りを放った。足蹴りは背の高いインブリー博士には届かなかったが、さらに残忍な敵意を持った生徒が刃物をもってインブリー博士の顔を目がけて切りつけた。次の瞬間、彼は左の頬に深手を負い激しい痛みを覚えた。明治学院の生徒二人と同僚の教授たちおよび主催者たちが直ちにインブリー博士のもとに駆け寄り、高等中学校生徒の凶行を止めさせた。''}}
その後、アメルマンともう一人の神学部教授のジョージ・ウィリアム・ノックスが他の場所に避難したインブリーを支えながら[[人力車]]の溜まり場へ急ぎ、直ちに出血のひどい傷の手当てのため彼の自宅に送り届ける手配をした。多くの生徒たちも話をしながら人力車スタンドまで付き添った。一行は途中で出会った警察官に事件の模様を知らせたが、インブリーは無言で静かに歩き、追いかけてきた警察官に対してもただ黙って名刺を差し出しただけであった<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.120-122</ref><ref name="星205">[[#星(2013)|星(2013)]] p.205</ref>。
== 事件に関する証言 ==
=== 木下広次の調査資料 ===
事件後に詳しい調査にあたった一中校長、木下広次の資料によれば、5月17日の試合の見物客は100人あまりいたが、その大半は一中の生徒だった。午後3時ごろに洋服の大男が垣根を越えてグラウンドに入ってきたのを見て、まず4、5人がその無礼な態度をとがめようと彼に近寄り、[[英語]]で非難したものの互いによく通じず、興奮が高まり、周囲には数十人集まって、まず1人がその外国人の顔を殴り、続いて4、5人の者が小石を投げつけたところ、左頬に当たって血が流れる傷を負った。やがて明治学院生も駆けつけて、彼が同校の教師であり、ベースボールが好きなために見物に来たことが分かり、事態が収まったという<ref>[[#鈴木(1993)|鈴木(1993)]] p.107</ref>。
=== 正岡子規の日記 ===
[[ファイル:Masaoka Shiki1889.jpg|right|200px|thumb|事件2か月前に撮影された[[野球ユニフォーム]]姿の[[正岡子規]]。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]の学生の彼も事件当日に試合を観戦していた]]
岩岡保作と[[第一高等学校 (旧制)|東京大学予備門]]時代に同級生[[バッテリー]]を組んだ俳人の[[正岡子規]]もこの試合を観戦していた<ref>[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.102</ref>。子規と岩岡の一中の後輩で、後年に[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]と[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]を歴任した[[勝田主計]]はその著書『ところてん』(1927年)に「自分の高等学校時代にはベースボールが始めて流行り出して来た。盛にやつたのが正岡子規の級であった。即ち自分より二三年先輩の級であつた。子規がキャッチャー、岩岡氏がピッチャー、其他佐々田、加藤等の諸豪が居た」と書いている<ref>[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.83</ref>。子規が試合に出場していないのは、[[結核#肺結核|肺結核]]にかかり、一中チームのためにプレーすることができなくなったためである<ref>[[#岡野(2015)|岡野(2015)]] pp.48-49</ref>。彼はこの前年9月に『啼血始末』というものを書き<ref>[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.76</ref>、「たとえ死んでも、ベースボールがやりたい」という切なる心境を書いている<ref>[[#岡野(2015)|岡野(2015)]] p.44</ref>。
子規は1890年5月の『筆まかせ 第三のまき』に試合の模様を下記のように書き記しているが、一中の負け方が「見苦しい」と批判している<ref name="小関50" /><ref name="君島75">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.75</ref>。また、一中生がインブリーを「打擲(殴打)して」負傷させたと書いている<ref>[[#坂上(2001)|坂上(2001)]] p.36</ref>。なお、十八日とあるのは誤記であり<ref name="君島75" />、十余程というのは実際の得点を意味しない<ref>[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.102</ref>。
{{quotation|''十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。''<ref>[[#正岡(1890)|正岡(1890)]] p.84</ref>}}
=== 福井博士談 ===
1916年([[大正]]5年)に[[朝日新聞社]]が発行した『野球年鑑』第1号に「インブリー事件の犯人捜索」として福井松雄博士談が記載されているが、上記の岩岡ではなくて石堂博士が事件の下手人(犯人)と出ており、石でインブリーの顔を傷つけたと証言している。石堂は当時の校長の木下広次に自首し、木下が石堂をかばって奔走してくれたおかげで無事に済んだと話している<ref>[[#横田(1995)|横田(1995)]] p.266</ref>。
=== 山口鋭之助談 ===
野球史研究者の[[斎藤三郎 (文学・野球研究者)|斎藤三郎]]は1937年([[昭和]]12年)に新聞にこの事件のことを少し書いたとき、当時の一中の教授で、後年に[[学習院]]長や[[宮中顧問官]]などを歴任した[[山口鋭之助]]から「或者が砂利を拾って投げつけた、先生は額から少し血が出たのみで、そのまま驚いて帰ってしまったのである。事件と言うのはそれだけで決して伝えられるような押す、殴る、蹴るというような騒ぎではなかった」と抗議されたと明かしている<ref name="斎藤73">[[#斎藤(1952)|斎藤(1952)]] p.73</ref>。
=== インブリーの息子の回想 ===
この後にインブリーは人力車に乗せられて築地外国人居留地一六番の自宅に戻り、9歳になる次男のチャールズと夫人のエリザベスに迎えられた。チャールズは後年に、父の思い出のなかで事件の模様について下記のように述懐している。
{{quotation|''父は自分が何者であるのか、なぜここにいるのかを説明したが、生徒の一人が父を蹴った。もう一人の生徒は小さなペンナイフを取り出し父の目の下に重傷を負わせた。しかし、父は冷静さを保ちついに良識が勝利した。そして礼儀をわきまえた主催者が駆けつけ、応急処置を施されて我が家に送り届けられた。(中略)父はその頬にずっと傷を残していた。そして、その傷跡を自分自身とともに墓の中まで持ち込んだのであった。''<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.123</ref><ref>[[#星(2013)|星(2013)]] pp.206-207</ref>}}
先述の記事を書いたジャパン・ウィークリー・メイル紙の記者に対し、事件後に一中の生徒たちはあくまでもインブリーの傷はがれきのかけらによるものであると言い張ったが、傷を治療した外科医は間違いなく鋭利な刃物が使用されたと同記者に証言している<ref name="星205" /><ref name="中島122">[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.122</ref>。
=== インブリーから海外伝道局宛ての手紙 ===
インブリーは外出を禁止され自宅静養を強いられたが、インタビューを行ったジャパン・ウィークリー・メイル紙の記者に対しても自身の被害について沈黙したままであった<ref name="中島122" /><ref>[[#星(2013)|星(2013)]] p.206</ref>。彼は海外伝道局書記から送られた見舞いの手紙に対して以下のように返事を書いている。
{{quotation|''大変多くの方から同情と愛情の言葉をいただいたことは災禍への代償の一つです。半インチの傷跡以外に私には出来事を思い出させるものは何もありません。もしあの一撃がもう少し上の方を狙っていたとしたならば、私は失明したと思われます。また、主治医によれば恐らく命をも落としたに違いないとのことです。''<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.124</ref>}}
== 和解成立 ==
[[ファイル:John Franklin Swift.jpeg|right|200px|thumb|事件に対処した[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日アメリカ全権公使]]の[[ジョン・フランクリン・スウィフト]]]]
横田順弥は事件を拡大させなかった確かな理由のひとつとして、一中をはじめとする関係者が即座に事態収拾に動き出し、インブリーに謝罪したことをあげている<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.22</ref>。『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙(5月31日付)によれば<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.138</ref>、[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日アメリカ全権公使]]の{{仮リンク|ジョン・フランクリン・スウィフト|en|John Franklin Swift}}は事件の報告を当日のうちに受けると、[[在日アメリカ人]]の動揺を考慮して週明けの月曜日(5月19日)に[[外務省]]に出向き、事件の解決とその影響が今後ほかに波及しないよう要望する[[証書|公文書]]を手交わし<ref name="中島114">[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.114</ref>、翌20日には[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ジェイムズ・G・ブレイン|ジェームズ・G・ブレイン]]宛てに報告を行った<ref name="中島130">[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.130</ref>。
[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[青木周蔵]]{{#tag:ref|ただし、『青木周蔵自伝』(1970年、{{ISBN|978-4582801682}})、『明治外交と青木周蔵』(1985年、{{ASIN|B000J6QLUI}})、『青木周蔵 日本をプロシャにしたかった男〈下〉』(1997年、{{ISBN|978-4122028975}})には「インブリー事件」についての記述が一切ない。|group=#}}はこの事件が国際問題化して[[条約改正]]に支障をきたすことを危惧していた<ref name="池井31" />。外務省はこの問題について[[文部省]]と緊急に協議し、一中の当局者を呼び出した<ref>[[#ホワイティング(1990)|ホワイティング(1990)]] p.60</ref>。文部省から勧告を受けて、一中校長の[[木下広次]]が事件の解決に乗り出すことになった<ref>[[#池井(1976)|池井(1976)]] p.32</ref>{{#tag:ref|『近代日本の外交と宣教師』の中島耕二はこの一連のやり取りは日本側文書からは確認できなかったが、一中関係者の迅速な対応ぶりから、そうした協議が行われたことは十分考えられるとしている<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.137-138</ref>。|group=#}}。
インブリーは5月21日付でスウィフト宛てに書簡を送り、そのなかで同日に一中の正使の[[久原躬弦]](教頭)および小嶋(教諭)が彼の自宅を訪ね、謝罪とともに事件を国際問題にしないよう懇請したのに対して承諾したことを伝え、「今後外交上いかなる処置も講じない」との処置をしてほしいとスウィフトに要請した<ref name="中島130" />。この会談の内容は久原から校長の木下広次へ詳しく報告され、木下はそれを[[覚書]]として記録している<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.130-132</ref>。これに対する22日付のスウィフトからインブリー宛ての書簡ではスウィフトがインブリーの意向を聞き理解したものの、自分は外交官として在外同胞の安全保障の責務を負っており、必ずしもインブリーの意向を保証するものではないとしている<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.132</ref>。インブリーと親しい[[井深梶之助]]も穏便な扱いを各方面に働きかけた<ref>[[#星(2013)|星(2013)]] p.208</ref>。27日付のインブリーからスウィフト宛ての書簡は23日から26日までインブリーと一中との間で交わされた全7通の往復書簡を同封したもので、7通目のインブリーから久原宛てでインブリーが井深、ノックスとともに、小嶋、松田(一中幹事)、4人の一中生徒と面会し、松田から生徒の名において暴力行為に対して謝罪行為が述べられ、両者側とも友好な印象をもって終了できたことを報告している。また、スウィフトの事件における親切に謝意を述べるとともに、事件に関して外交的行為を講じないとする決断に、完全に満足していることを伝えている<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.132-136</ref>。
5月29日付の『朝野新聞』は「(事件は)至極無事に落着し、一両日前、木下同校長はベースボール会員中の関係者一同を招集して、落着の旨を報道せしと云えり」と報じている<ref name="城井105">[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.105</ref>。
スウィフトは6月7日付で「インブリー氏と一中幹部の和解」と題して、国務長官ブレインに22ページに及ぶリポートと前掲のインブリーとの関連往復書簡の全部および外字紙のスクラップを同封して事件に関する最終報告を行った。スウィフトは事件そのものは取るに足らないものであるが、日本社会にはびこっている状況の混乱化(排外思想の激化)の兆しとなる点で重大であるとし、「この傾向については日本政府も条約改正交渉への影響を恐れ、国民によるあらゆる排外示威運動を黙らせるようにしている」と伝え、最後に[[東京]]の[[宣教師]]と学校教授を保護するための行動を承認してくれるように要請してリポートを結んでいる<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] pp.136-137</ref>。
== 事件についての論考 ==
『内村鑑三不敬事件』(1961年)の小沢三郎は当時の一部の一中生らの強い[[国家主義]]的、国粋主義的傾向と若人らしい「血気の活動」、このふたつが大騒動にまで発展させた有力な要素だったのではないかとみている<ref>[[#小沢(1961)|小沢(1961)]] p.46</ref>。
『スポーツの近代日本史』(1970年)の木下秀明は一中側が「勝てる見込みのない試合を」勝っていれば問題にならない小さな事にすりかえて、「負けないですませた」この事件を、[[西洋]]の[[スポーツマンシップ]]に耳を傾ける余裕のない、勝利至上主義に彩られた[[武士道|武士道精神]]に支配されるスポーツ集団が日本国内で形成されていく過程で起こった象徴的な出来事としている<ref>[[#木下(1970)|木下(1970)]] pp.114-115</ref>。
『スポーツする身体とジェンダー』(2007年)の谷口雅子はスポーツの場での感情の高揚や闘争心を、試合に付き添い、大きな旗を振り回したり相手方に罵言雑言を浴びせて気勢をそごうとする応援団や野次連がさらに煽る結果となり、暴力行為を生み出すことになったとしている<ref>[[#谷口(2007)|谷口(2007)]] p.70</ref>。
一中入試に失敗し、事件当時に明治学院で学んでいた[[戸川秋骨]]は『文鳥』「明治学院時代」(1924年)のなかで、木下広次が採用した教育方針が一中の学生たちを毒し、事件を引き起こす原因になったのではないかと当時の一中校長を痛烈に批判している<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.128</ref>。中島耕二は『近代日本の外交と宣教師』(2011年)において、木下の教育方針も一中の精神的風土の形成には不可欠ではあったとして、この戸川の考えに部分的に賛意を示しながらも、事件および「[[内村鑑三不敬事件]]」につながる排外思想や反キリスト教思想の直接的影響を一中生徒たちに与えたのは国家主義を支持し、キリスト教を受け入れようとしない教授たちであったのではないかと異議を唱えている<ref>[[#中島(2011)|中島(2011)]] p.129</ref>。
== その後の一中ベースボール会 ==
一中ベースボール会では試合は敗れたも同じとして、選手たちは全員謹慎の意を表したが、学年試験も間近に迫っていたので、雪辱は来学年になる9月以降にしようということになった<ref name="城井105" />。正岡子規もエースの岩岡保作らとともに、1890年7月に一中を卒業していった<ref>[[#城井(1996)|城井(1996)]] p.106</ref>。野球史研究者で一高後輩の[[君島一郎 (野球研究者)|君島一郎]]によると、岩岡は卒業後に[[福岡県|福岡]]の一高同窓会に出ても、昔の野球の話は極力避けていた様子だったという<ref>[[#君島(1972)|君島(1972)]] pp.114-115</ref>。
記録上ではノーゲームだが、一中の実質的敗北であり、誇るべき学校の名誉まで傷つけたとして、一中ベースボール会の選手たちは5月17日を屈辱と敗北の記念日とした<ref name="斎藤73" /><ref>[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.63</ref>。その結果、「勝つまで戦う。勝つためには死力を尽くして練習する」という勝利至上主義の基本精神が確立されることになった<ref name="菅野4" />。事件から半年の間に大改革が行われた。選手はそれまでの遊びと楽しみのベースボールから一転、「対明治学院必勝」を目指して猛烈な練習に明け暮れるようになり、全校生が応援団になるほどの盛り上がりを見せた<ref name="大和38-39">[[#大和(1977)|大和(1977)]] pp.38-39</ref>。
そして明治学院側から一中に再度試合が申しこまれ、1890年11月8日に向ヶ丘で試合が行われた<ref name="大和38-39" />。7年後にベースボールの訳として「[[野球]]」という語を世間に発表する[[中馬庚]]もこの試合に一中の[[二塁手]]として名を連ねている<ref>[[#大和(1977)|大和(1977)]] p.39</ref>。なお、中馬は子規と同じく文科志望であり、子規の3年後輩(一中は5年制)にあたる<ref name="君島80">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.80</ref>{{#tag:ref|君島一郎は正岡子規が新聞『[[日本 (新聞)|日本]]』に載せたベースボール解説の内容から考えても、子規と中馬庚の間の連絡はまったくなかったとしている<ref name="君島80" />。|group=#}}。試合は5回まで8-0とリードし、その後に18点を追加した一中が26-2と大勝した<ref>[[#大和(1977)|大和(1977)]] p.40</ref>。試合後に一中の選手たちは抱き合って泣いて喜び、選手だけでなく全校1,000人挙げて喜んだ<ref>[[#菅野(2003)|菅野(2003)]] p.5</ref>。
一中は対明治学院戦から2週間後の11月23日に[[東京府]]下の大学選手の精鋭を集めて東京の最強チームの誉れ高い溜池倶楽部を向ヶ丘で迎えるが、早くも2回に[[長打]]を連発して序盤から優位に進め、この試合も32-5の大差で快勝した<ref>[[#大和(1977)|大和(1977)]] pp.40-41</ref>。
1896年(明治29年)5月23日に一中が横浜公園で横浜外国人チームと初めて国際試合を行い、29対4で大勝すると、勝利至上主義、鍛錬主義の一中野球の精神に日本のナショナリズムの高揚といった意味が付加され、日本の武士道精神の延長上に野球の精神が位置付けられるようになった。
== 事件から123年後の記念試合 ==
2013年([[平成]]25年)11月24日に明治学院と第一高等中学校の後身にあたる、[[明治学院大学硬式野球部|明治学院大学野球部]]対[[東京大学運動会硬式野球部|東京大学野球部]]の[[エキシビション|エキシビションゲーム]]「明治学院創立150周年記念」試合が行われた<ref>{{Cite web|author=[[小関順二]]|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/770808?page=2|title=部活は大学の単位をとってから!? 野球と“学業”、“伝統”の関係。|page=2|work=[[Sports Graphic Number]]|date=2013-12-23|accessdate=2018-08-18}}</ref>。両校の公式試合は1890年以来123年ぶりである<ref>{{Cite news|author=赤堀宏幸|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20131125/unv13112505060002-n1.html|title=“日本最古の対校戦”123年ぶり復活!明学大、東大に逆転勝ち|page=1|work=[[サンケイスポーツ]]|date=2013-11-25|accessdate=2018-08-18}}</ref>。[[明治神宮野球場|明治神宮球場]]に卒業生や系列校の生徒ら約2,800人の観衆を集めた<ref name="新ヶ江">{{Cite web|author=新ヶ江周二郎|url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=022-20131209-01&page=3|title=アマチュア野球情報最前線 - 神宮でよみがえった日本最古の対抗試合
|work=[[週刊ベースボール]]|date=2013-11-29|accessdate=2018-08-18}}</ref>。この日は明治学院大が特注した明治時代の[[野球ユニフォーム|ユニフォーム]]を再現した上着と[[ハンチング帽]]を両チームが着用した<ref name="新ヶ江" />。草創期を思い起こさせるユニフォームの明治学院大に対し、東大は東京帝国大学時代の「{{Lang|en|TIU}}」をあしらったユニフォームだった<ref>{{Cite news|author=赤堀宏幸|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20131125/unv13112505060002-n2.html|title=“日本最古の対校戦”123年ぶり復活!明学大、東大に逆転勝ち|page=2|work=サンケイスポーツ|date=2013-11-25|accessdate=2018-08-18}}</ref>。試合は7回に一死二、三塁から相手の[[失策]]で2点を勝ち越した明治学院大が3-1で勝利を飾った<ref name="新ヶ江" />。同校の卒業生で元[[プロ野球選手]]でもある明治学院大監督の[[森山正義]]は「長い歴史は今の選手も背負っている。恥ずかしいことはできない。勝ててよかった」と記念の試合を振り返っている<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp3-20131125-1222842.html|title=日本初の対校戦 明学大と東大が対戦|work=[[日刊スポーツ]]|date=2013-11-25|accessdate=2018-08-18}}</ref>。
この試合の5回終了時には、[[オーロラビジョン]]に明治学院大の部員が出演、撮影した「インブリー事件」を説明する約5分間にわたるVTRが上映され、両校の選手たちはベンチを出てその映像を見つめていた<ref name="新ヶ江" /><ref>{{Cite news|author=赤堀宏幸|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20131125/unv13112505060002-n3.html|title=“日本最古の対校戦”123年ぶり復活!明学大、東大に逆転勝ち|page=3|work=サンケイスポーツ|date=2013-11-25|accessdate=2018-08-18}}</ref>。
== 注釈 ==
{{Reflist|group=#}}
== 出典 ==
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
* [[平和台事件]]
* [[木戸美摸投手負傷事件]]
== 参考文献 ==
<ref>[[#|]] p.</ref>
; 雑誌
* {{cite journal|和書|author=[[斎藤三郎 (文学・野球研究者)|斎藤三郎]]|title=野球文献史話③ 一高を騒がせたイムブリー事件|year=1952|month=5|journal=読売スポーツ|publisher=[[読売新聞社]]|ref=斎藤(1952)}}
; 書籍
(出典番号順に整理)
* {{Cite book|和書|author=中村哲也|title=歴史ポケットスポーツ新聞 野球|year=2007|publisher=[[大空出版]]|isbn=978-4903175102|ref=中村(2007)}}
* {{Cite book|和書|author=谷口雅子|title=スポーツする身体とジェンダー|year=2007|publisher=[[青弓社]]|isbn=978-4787232779|ref=谷口(2007)}}
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* {{Cite book|和書|author=菅野真二|title=ニッポン野球の青春 武士道野球から興奮の早慶戦へ|year=2003|publisher=大修館書店|isbn=978-4469265385|ref=菅野(2003)}}
* {{Cite book|和書|author=中島耕二|title=近代日本の外交と宣教師|year=2011|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642038096|ref=中島(2011)}}
* {{Cite book|和書|author=[[小関順二]]|title=野球を歩く 日本野球の歴史探訪|year=2013|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794220141|ref=小関(2013)}}
* {{Cite book|和書|author=[[星亮一]]|title=井深梶之助伝 明治学院を興した会津の少年武士|year=2013|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582836134|ref=星(2013)}}
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