「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の版間の差分

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[[太平洋]]の北西部や[[オホーツク海]]における[[北洋漁業]]は、この共同宣言により政治的保証がなされ、安定的な操業に大きく役立ったが、これ以後も北方領土付近の海域を中心に[[拿捕]]事件が多数発生し、長年にわたって両国関係を悪化させる要因ともなった。
 
===文化===
外交関係の回復は両国間の文化交流の再開にもつながった。NHKは以前から国内学習者からの嘆願署名を受けていたが、この国交回復が加わったことで1956年11月から[[NHKラジオ第2放送|ラジオ第2放送]]に[[ロシア語講座]]を追加した。また、1957年2月28日には[[昭和基地]]を設営した第1回[[南極地域観測隊|南極観測]]の帰途に基地のある[[オングル島]]近海の氷原で閉じ込められた観測船[[宗谷 (船)|宗谷]]の救援をソ連の砕氷船オビ号が行い、脱出後の3月13日には[[南アフリカ共和国]]のケープタウンで両船乗員による交歓会が行われた<ref>なお、日本は第二次大戦開始に伴う国交断絶後に南アフリカ共和国との領事関係を1952年から復活させていたが正式な外交関係はなく、ソ連は南アフリカ政府による[[アパルトヘイト]]政策への抗議で1956年に国交を断絶していたため、両国共に正式な外交関係のない第三国での交流となった。</ref>。ソ連船による救難は日本国内でも報じられ、日本国内の対ソ感情の軟化に資した。
 
==脚注==