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[[1990年]]、逝去。{{没年齢|1919|10|11|1990|10|16}}。
 
== 日本との関係 ==
{{出典の明記|date=2020年3月|section=1}}
[[親日|親日家]]として知られる。[[1961年]]の初来日以降、何度も日本で演奏を行った。
 
初来日時、とあるファンから記念写真をせがまれ、「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」と驚き、ファンが「そんなこと知ってます。ぜひ一緒に」と答えたことにさらに驚き喜んだ。当時のアメリカでは有色人種に対する差別が公然と行われていた為、ブレイキー一行はそのファンの反応に戸惑いを感じると同時に、大いに感銘を受けたようである。{{要出典|date=2020年6月}}
 
彼の演奏した曲の中には"Ugetsu(雨月)" On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"など、日本をテーマにしたものも存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降[[鈴木良雄]]、[[鈴木勲]]等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての妻の一人も日本人であったという{{要出典|date=2020年6月}}。また来日時には、日本人ドラマーの[[ジョージ川口]]、[[白木秀雄]]らともドラム合戦を繰り広げた。自分の息子に「Taro (太郎)」と名付けていたり{{要出典|date=2020-06}}、[[日本酒]]を大いに気に入り、千鳥足でステージに上がったこともあったという{{要出典|date=2020年6月}}。使用するドラムも晩年は日本の[[パール楽器製造|Pearl]]と契約し{{要出典|date=2020年6月}}、亡くなるまで愛用した{{要出典|date=2020年6月}}。
 
また東京での公演がTBS系列で日本全国にラジオ中継されると聞かされて、彼を始めジャズメッセンジャーズのメンバーは大いに奮起した。前述の初来日時の感激やインスピレーションが、親日家アート・ブレイキーを生んだと伝えられている。帰国を前に、彼は「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」<ref>A DAY WITH ART BLAKEY 1961 ライナーノーツ記載のスイングジャーナル誌昭和61年2月号の記事抜粋文</ref>とも述べている。
 
その後、亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルでは顔役的存在であった。{{要出典|date=2020年6月}}
 
 以下のような日本での逸話がある。
 
「昭和40年(1965年)1月18日、氏(アート・ブレイキー)の演奏会が行われました。2時間の熱演の後、幕が下りた後も、興奮冷めやらず、聴衆は席を立とうとしません。その時、聴衆の中から、数人の少女たちがドラムをかかえて舞台裏へ突進していきました。たどたどしい英語で、自分たちが鼓笛隊メンバーであることを話しました。『ぜひ教えてほしい』。あまりの熱心さに、氏はその場で直ちに教え始めました」。その後、氏は少女たちの真剣さに打たれて、日を改めて教えることを約束し、1月26日、にわか結成の音楽隊・鼓笛隊の仲間にリズムの基礎家のレッスンを行った。「鼓笛隊員の一生懸命な姿に、彼も背広を脱ぎ捨て、すぐスティックを取って、全魂をこめてたたき出しました。『形式や、形で打つのではない。ハートで打つのだ!』……全身から噴き出る汗をぬぐおうともせず、巨体でリズムをとり、シャシャーンとシンバルを打つ。すさまじい迫力。教える側と教わる側が一体になった練習が約1時間続きました。約束の時間を過ぎても、彼はやめようとしない。最後に、汗と涙でくしゃくしゃの顔で『私は、日本の本当の姿を見た。日本は私のふるさとだ』と語り、舞台のそでに駆け込んで、マネジャーと抱き合い、号泣していたといいます」。 (『法華経の知恵』第六巻、69-70.){{要出典確認|date=2020年6月|title=池田大作『法華経の知恵』のことか?}}
 
== メッセンジャーズ出身者 ==