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== 生涯 ==
渤海人の出身。[[天慶 (遼)|天慶]]6年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1116年]][[1月17日]])、東京{{仮リンク|[[遼陽府|zh|辽阳府}}]](現在の[[遼寧省]][[遼陽市]])で遼の過酷な支配に不満を持っていた渤海人が東京[[留守官|留守]]の蕭保先を殺害するという事件が起きた<ref name="Ryoushi028">『[[遼史]]』巻二十八 本紀第二十八 天祚皇帝二</ref>。遼陽府の裨將であった高永昌はこの機に乗じて3,000人を率い、反遼の兵を挙げた。遼陽府を占拠した高永昌は[[戸部 (六部)|戸部]]使の{{仮リンク|大公鼎|zh|大公鼎}}、副留守の高清明ら遼の官員を追放し、大渤海皇帝を称して[[国号]]を大元、[[元号]]を[[隆基]]とした<ref name="doopedia1062094">{{Cite web|website=[[斗山世界大百科事典]]|url=https://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1062094&cid=40942&categoryId=33381|title=고영창|language=[[韓国語]]|accessdate=2020-05-17}}</ref>。
 
その後遼の{{仮リンク|東京道|zh|东京道}}五十余州を攻め落とした。隆基元年[[閏月|閏]][[1月4日 (旧暦)|1月4日]](1116年[[2月19日]])に蕭韓家奴、{{仮リンク|張琳 (遼)|label=張琳|zh|张琳 (辽朝)}}らが率いる遼軍が向かって来る<ref name="Ryoushi028"/>と、高永昌は北方の[[金 (王朝)|金]]に対して救援を求めた。金の[[阿骨打|太祖]]は増援と称して東京地区を占領し、遼軍の背後から攻めかかって大いに打ち破った。高永昌は太祖から帝号の取り消しを命じられたがこれを拒否したため、金軍の攻撃を受けて遼陽府を占拠され、高永昌は捕えられて斬首された<ref name="doopedia1062094"/>。