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→‎制定と牧士頭の任命: 野馬奉行へ引越し
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牧を管理した現地役人は[[牧士]](もくし)と呼ばれ、苗字帯刀等武士の格式を持ち、鞍を置いての乗馬、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行も認められた。'''牧士'''は文武天皇の代に設けられた職制・身分<ref name="east1"/>で、[[呉音]]訓である事も古い起源を裏付ける。当地域での任命は[[北条氏政]]の弘治年間<ref name="east1"/>で牧の原型の成立も同時期である事を示す。初期は主に千葉氏・高城氏の旧臣、後には地元の名主等が牧士に任命された。
 
世襲の牧士頭、享保年間以降の野馬奉行も小金の綿貫家が任命された。名は初代が重右衛門でその後は夏右衛門とした場合が多い<ref name="east1"/>。綿貫氏は千葉氏一族で、相馬氏ともつながり、[[小金城]]主[[高城氏]]の姻戚である。詳しくは[[野馬奉行]]参照
 
牧の成立から、200年以上後の1845年(弘化)没の12代政直の墓碑銘に、旧暦4月1日、江戸表で[[徳川家康]]直々に野馬奉行兼牧士支配へ任命され、袷を着るべき時季に袷がなく、綿を抜いた綿入れを着て来たため、家康の命で、氏を綿貫と改め四月朔と号したとある<ref name="east2">『東葛飾郡誌』第十六章名所旧跡第三節旧跡城址墳墓</ref>が、この話は、後世の創作の可能性が青木更吉によって指摘されている<ref name="walk"/>。野馬奉行への改称は『東葛飾郡誌』に記されており、細かくは、1755(宝暦5)年提出の綿貫氏『由緒書』等の影響による後世の呼称とする説があり<ref name="ohtani"/>、後述する。1918(大正7)年『房総町村と人物』<ref name="chiba"/><ref>第三編東葛飾郡二十二小金町</ref>「綿貫政吉」の項に、野馬奉行任命は慶長11年4月1日陽春で、綿入れの綿を抜くために登城が1日遅れ、訳を聞いた家康の命で綿貫と改姓したとあるが、該当箇所の第2節の前も第2節、野馬奉行任命から大政奉還まで13年とする等の数字関係の誤植が多く、慶長11年の誤植の可能性が否定できない。また、四月一日と書いて「わたぬき」と読む姓があるが、[[立夏]]のこの時期まで該当地域で綿入れを着用していたにせよ、すでに袷を着用していたにせよ、重右衛門の登城が1日遅れる必要はなく、後世の創作とする説と矛盾しない。
 
野馬奉行は房総の三牧を支配した<ref name="east2"/>。野馬奉行綿貫氏邸に、14代将軍の乗鞍・水戸家所賜太刀・赤穂義士岡島某所帯短刀があり<ref name="east2"/>『房総町村と人物』では将軍の鞍は3組としている。野馬奉行の屋敷については後述する。