「オマーン帝国」の版間の差分

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|image_flag2=Flag of Muscat.svg
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|capital= {{仮リンク|ルスタック|en|Rustaq}}(1692–1792)<br>[[マスカット]](1792–1840)<br>[[ザンジバルシティ|ザンジバル]](1840–1856)
|common_languages='''公用語:'''<br/>[[アラビア語]]<br/>'''一部地域:'''<br/>[[ペルシア語]]<br/>[[英語]]<br/>[[スワヒリ語]]<br/>[[アラビア語オマーン方言]]<br/>[[アラビア語北イエメン方言]]<br/>[[バローチー語]]
|religion=[[イバード派]](主要)<br>[[シーア派]]<br/>[[スンナ派]]<br/>[[キリスト教]]<br/>[[ヒンドゥー教]]
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|year_leader8=1743–1749
|leader8={{仮リンク|バルアラブ・ビン・ヒムヤル|en|Bal'arab bin Himyar}}
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|deputy1={{仮リンク|アフマド・ビン・サイード・アル=ブサイディ|en|Ahmad bin Said al-Busaidi}}
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|date_event1=[[1723年]]<ref>福田、2017、295頁。</ref>
|event1=内戦勃発
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}}
'''オマーン帝国'''(オマーンていこく、[[アラビア語]]:الإمبراطورية العمانية、[[英語]]:Omani Empire)とは、かつて[[インド洋]]や[[ペルシア湾]]の覇権をめぐって[[イギリス帝国]]や[[ポルトガル海上帝国]]と競合し、現在の[[オマーン]]を中心に存在した[[タラソクラシー|海洋帝国]]である。最盛期を迎えた[[19世紀]]には、帝国の影響力や支配は[[ホルムズ海峡]]を越え、北は現在の[[イラン]]や[[パキスタン]]、南は[[アフリカ]]の{{仮リンク|デルガド岬|en|Cape Delgado}}にまで及んでいた。
 
[[1856年]]の[[サイイド・サイード]]の死後、帝国は{{仮リンク|マージド・ビン・サイード|en|Majid bin Said}}の[[ザンジバル・スルターン国]](アフリカ東海岸)と、{{仮リンク|スワイニー・ビン・サイード|en|Thuwaini bin Said}}の{{仮リンク|マスカット・オマーン・スルターン国|en|Muscat and Oman}}([[アラビア半島]])に分裂した。
 
== 地域大国への道程 ==
通商上の要衝であった[[マスカット]]は、[[1507年]]から[[1650年]]にかけてポルトガルの支配下に入ったが、[[ヤアーリバ朝]]創始者であった{{仮リンク|ナーシル・ビン・ムルシド|en|Nasir bin Murshid}}の指揮によってポルトガルへの断続的な抵抗が続けられたため、ポルトガルはオマーン全土を支配するには至らず徐々に領土を奪われていった<ref>福田、1991、77頁。</ref>。[[17世紀]]半ばになると、オマーン部族はマスカットでの[[ポルトガル人]]による支配を終わらせることができ<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.rafmuseum.org.uk/research/online-exhibitions/an-enduring-relationship-a-history-of-frienship-between-the-royal-air-force-and-the-royal-air-force-of-oman/a-history-of-oman.aspx|title=A History of Oman|website=www.rafmuseum.org.uk|language=en|access-date=2018-08-09}}</ref>、この時マスカットを占拠した際に停泊していたポルトガルの大型帆船という戦利品は、その後における帝国の[[貿易]]活動と繁栄に大きく寄与していった<ref>福田、2017、296頁。</ref>。また、同じころには[[サファヴィー朝|サファヴィー朝イラン]]への攻撃も実施され、[[1670年]]ごろにはホルムズ要塞を3ヵ月にわたって包囲したほか、[[1694年]]にはペルシア湾へ艦隊を派遣して[[ペルシア人]]の貿易活動を妨害しようと試みた<ref name= "福田">福田、1991、84頁。</ref>。{{仮リンク|サイフ・ビン・スルターン|en|Saif bin Sultan}}の治世下の[[1696年]]にはオマーン艦隊が[[モンバサ]]を攻撃し、2,500人の住民が避難していたポルトガルの[[ジーザス要塞]]を包囲した([[ジェズス要塞包囲戦|ジーザス要塞包囲戦]])。この[[攻囲戦]]は守備隊が餓死したことで33ヵ月後に終わり{{Sfn|Beck|2004|p=}}、その後もサイフ・ビン・スルターンはアフリカ東海岸への拡大を続けた<ref name=":0" />。
 
こうしてモンバサを攻略しポルトガルやペルシア勢力を駆逐したオマーン帝国はインド洋西部における支配を強めていき<ref>福田、2017、295頁。</ref>、[[1783年]]までには東方へと拡大して現在のパキスタンにある[[グワーダル]]に至った<ref name=":0" />。オマーン人はインド西部のポルトガルの基地も攻撃し続け{{Sfn|Davies|1997|p=51-52}}、北方ではペルシア湾にてバーレーンを数年間占拠し続けた{{Sfn|Davies|1997|p=52}}。帝国の勢力拡大と南方への影響には、オマーン人移民による[[ザンジバル諸島]]への最初の大規模な入植も含まれた{{Sfn|Limbert|2010|p=153}}。
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== イギリスとの同盟 ==
ブーサイード朝の{{仮リンク|スルターン・ビン・アフマド|en|Sultan bin Ahmad}}は甥の死後に政権を掌握し、多数の[[砲艦]]と新たな[[貨物船]]を加えてすでに強力な[[艦隊]]をさらに強化したが、{{仮リンク|マズルイ家|en|Mazrui}}から[[モンバサ]]の支配権を取り戻して、現在の[[サウジアラビア]]から広がる運動を阻止し、なおかつペルシャの都市[[バンダレ・レンゲ]]のQasimi族をオマーンから引き離すために、有力な同盟国を必要としていた。これが可能な勢力として彼が見つけたのが、当時強大な[[海洋国家]]であり世界中に版図を広げていたイギリス帝国であった。[[18世紀]]後半のイギリスは[[フランス第一帝政]]と戦争状態にあり、皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]がペルシを行軍させ、[[ムガル帝国]]侵攻の途上でマスカットを獲得する計画を立てていることが判明していた。イギリスとオマーンは[[1798年]]の通商航海条約締結に合意した<ref>松尾、2013、35頁。</ref><ref>{{cite book|ref=harv
|last=Miles|first=Samuel Barrett|title=The Countries and Tribes of the Persian Gulf
|url=https://books.google.com/books?id=dbsOoPpZiSEC&pg=PA281|accessdate=19 November 2013 |year=1919|publisher=Garnet Pub.|isbn=978-1-873938-56-0}}</ref>。
 
アフマドはインドにおけるイギリスの[[国益]]を保証し、彼の領土はフランスの影響圏外となった。彼はイギリス東インド会社にペルシア湾で最初の交易所の設立を許可し、イギリス領事がマスカットに派遣された。ナポレオンを破ると同時にイギリスには、[[1772年]]に自国で違法と宣告された[[奴隷制]]を終わらせるためにアフマドに圧力をかけたかったという、オマーンと条約を結ぶもう1つの動機があった。当時、アフリカからオマーンへの貿易は依然として活発であり、モザンビークからインドへの[[象牙]]の供給がポルトガルの過剰な輸出税によって途絶えると、重要な貿易拠点としてのザンジバルの地位はさらに強化された。商人らは代わりにザンジバル経由で象牙を出荷した。オマーンの軍艦は絶え間ない小競り合いで湾を往来していたため、アフマドはそれに気を取られていた。[[1804年]]、乗船してペルシャ湾へ遠征に出撃した際、アフマドは流れ弾に頭を撃たれレンゲに埋葬された<ref>{{Cite web|url=https://www.britishempire.co.uk/maproom/oman/sultanate.htm|title=The British Empire, Imperialism, Colonialism, Colonies|website=www.britishempire.co.uk|access-date=2018-08-06}}</ref>。
 
== サイイド・サイード ==
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王家内の分裂はサイイド・サイードの死後、王座を支配するために対抗意識と野心を持っていた彼の息子たちが帝国をめぐって争ったために明らかであった。サイイド・サイードの息子の1人{{仮リンク|バルガッシュ・ビン・サイード|en|Barghash bin Said of Zanzibar}}は、兄のマージド・ビン・サイードが父親の死を知らないことを悟って密かに上陸し、ムトニ(Mtoni)の宮殿とザンジバルの砦を支配しようとしたが、充分な支持者を集められずに彼の試みは阻止された。
 
マージドは1856年[[10月28日]]にザンジバルのスルタンであることを宣言し、この知らせとともにオマーンへ船が派遣されたが、[[1844年]][[7月23日]]に後継者として指名され、マスカットの支配者およびサイディ軍最高司令官を長年務めてきたサイードの長男スワイニー・ビン・サイードは、マージドの承認を拒否して直ちに武力でザンジバルを取り戻そうとした。この争いの直接の結果として、地域的安定を憂慮した[[イギリス領インド|英領インド政府帝国]]が紛争の仲裁を申し出た。英領インドが仲介を試みたのは、内戦が激化することでインド洋における貿易や海上交通の安全が損なわれたり、[[イギリス人]]の財産へ影響が及ぶことを防ぐためであった<ref>松尾、2013、67頁。</ref>。[[インドの総督|英領インド総督]]であった[[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・カニング]]はその仲裁において、帝国は2つのスルターン国に分割されるべきであるとし、ザンジバル・スルターン国とその属領はマージド・ビン・サイードに属し、サイードの東アフリカ自治領の前総督およびマスカット・オマーン・スルターン国はスワイニー・ビン・サイードにそれぞれ属する、と裁定した。一方[[1862年]][[3月10日]]には、[[パリ]]において英仏両国がザンジバル保証条約(Zanzibar Guarantee Treaty)に調印し、オマーンとザンジバル双方の独立を尊重することで合意した。ザンジバルとの関係断絶によってオマーンにもたらされた経済的損失を認識したスワイニーは、マージドが補償金として毎年4万{{仮リンク|マリア・テレジア・ターラー|en|Maria Theresa thaler}}を支払うべきだと主張したが、支払いは延滞し1年後に停止した<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=qKAtjJoXXpwC&pg=PA224 |title=The Rough Guide to Oman|last=|first=|publisher=Gavin Thomas|year=|isbn=|location=|pages=226}}</ref>。
 
== 脚注 ==
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*福田安志「近代オマーンにおけるインド人とイギリスの領事裁判権 ―インド人の位置と役割の変遷―」東洋文化研究所紀要(171)、2017年。
*松尾昌樹『オマーンの国史の誕生』御茶の水書房、2013年。
 
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|オマーンの歴史|en|History of Oman}}
* {{仮リンク|オマーンの歴史|en|History of Oman}}
* [[ザンジバルの歴史#オマーン帝国とザンジバル・スルターン国(1698年 - 1890年)|ザンジバルの歴史]]
* [[ティップー・ティプ]]
* {{仮リンク|ーンの歴史リザ|en|History of OmanRumaliza}}
* {{仮リンク|スワヒリ海岸|en|Swahili coast}}
 
{{Oman-stub}}