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'''ジーザス要塞'''([[英語]]:'''Fort Jesus'''、[[ポルトガル語]]:'''Forte Jesus de Mombaça''')は、[[ケニア]]・[[モンバサ]]にある[[要塞]]である。[[1593年]]、[[スペイン帝国|スペイン]]王・[[フェリペ2世_(スペイン王)|フェリペ2世]]の命令によって建設された。[[2011年]]、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]に登録された。
 
== 歴史 ==
[[File:Fort Jesus-Map-XVIIs1.jpg|180px|right|thumb|ジーザス要塞の地図]]
モンバサは現在のケニア東部の都市で、[[インド洋]]に面する港町である。[[東アフリカ]]では最古級の港町であり、[[1331年]]には[[イブン・バットゥータ]]が訪問したことでも知られる{{sfn|UNESCO|2011|p=15}}。東アフリカの交通の要衝であり、[[アジア]][[アラビア半島|アラビア]]、東アフリカ各地から物産が集散した。それゆえに、インド洋の支配を目指したポルトガルはモンバサの支配を計画した。
 
[[1500年]]からの第一次攻撃、[[1528年]]からの第二次攻撃の後[[1589年]]からの第三次攻撃でついに、モンバサは[[ポルトガル王国|ポルトガル]](当時はスペイン・ポルトガル[[同君連合]])の手に落ちた。[[1593年]]よりフェリペ2世の命令により、[[イタリア人]]のジョヴァンニ・バティスタ・カイラティ(Giovanni Battista Cairati)の指導のもと、ジーザス要塞の建設が開始された{{sfn|UNESCO|2011|p=15}}。要塞の形は、「神の完全なる創造物である」[[人間]]の形を模したものであり、[[ルネサンス]]の時代背景がこの要塞に残っている{{sfn|UNESCO|2011|p=15}}。
 
[[File:Empire of Oman.svg|180px|right|thumb|19世紀初頭半ば、オマーン帝国の最大版図]]
もっとも、[[ポルトガル海上帝国]]の[[覇権]]は[[17世紀]]に入ると、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]といった西ヨーロッパ勢および[[オマーン帝国]]の挑戦を受けることとなり、[[1678年]]には、ポルトガルの北東アフリカにおける唯一の拠点となってしまった{{sfn|UNESCO|2011|p=21}}。[[1698年]]12月には、33ヵ月にわたる[[ジェズス要塞包囲戦|ジーザス要塞包囲戦]]の末、ついにポルトガルは、ジーザス要塞の放棄を決定し、その後、33ヶ月間、ジーザス要塞は、オマーンが支配することとなった{{sfn|UNESCO|2011|p=21}}。その後、ポルトガルが[[1728年]]に一度のみジーザス要塞を奪還することに成功したが、ポルトガルの奪還は18ヶ月で終わり、再度オマーンが保有することとなった{{sfn|UNESCO|2011|p=21}}。オマーンの支配は、イギリスの植民地化が完成する[[1885年]]まで続いた。イギリス統治下のジーザス要塞の用途は牢獄であり、[[1958年]]の国立公園化まで継続した{{sfn|UNESCO|2011|p=21}}。
 
== 世界遺産登録基準 ==
2011年、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]に登録されるに当たり、他の類似案件との比較検討が実施された。比較対象となったのは、[[ガーナ]]の[[エルミナ城]] {{sfn|UNESCO|2011|pp=33-35}}、[[ガンビア]]の[[クンタ・キンテ島]] {{sfn|UNESCO|2011|p=35}}、モザンビークの{{仮リンク|サン・セバスティアオン要塞|pt|Fortaleza de São Sebastião}}{{sfn|UNESCO|2011|pp=36-37}}、[[タンザニア]]の[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ・キシワニ]] {{sfn|UNESCO|2011|p=37}}、[[インド]]の[[レッド・フォート]]{{sfn|UNESCO|2011|p=37}}及び{{仮リンク|アグアダ要塞|en|Aguada Fort Aguada}}である{{sfn|UNESCO|2011|p=38}}。
 
{{世界遺産基準|2|4}}
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references />
 
== 参考文献 ==