「松江藩」の版間の差分

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[[ファイル:150321 Matsue Castle Matsue Shimane pref Japan01bs.jpg|サムネイルthumb|250px|藩庁松江城]]
'''松江藩'''(まつえはん)は、[[出雲国|出雲]]1国または[[隠岐国]]を加えた2国を領有した[[藩]]。藩庁は[[松江城]]([[島根県]][[松江市]][[殿町 (松江市)|殿町]])。藩主は[[外様大名]]の[[堀尾氏|堀尾家]]、[[京極氏|京極家]]と続き、[[親藩]]の[[越前松平家|越前系松平家]]が[[廃藩置県]]まで支配した。
 
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== 支藩 ==
=== *[[広瀬藩 ===]]
=== *[[母里藩 ===]]
[[ファイル:広瀬陣屋.JPG|サムネイル|広瀬陣屋石碑]]
[[ファイル:広瀬陣屋土塁、石垣.JPG|サムネイル|広瀬陣屋に残る、土塁と石垣]]
'''広瀬藩'''(ひろせはん)は、松平家時代初期から置かれた松江藩の[[支藩]]。かつての出雲の中心地だった、現在の[[安来市]]広瀬地区に[[広瀬陣屋]]に藩庁が置かれた。
 
[[寛文]]6年(1666年)、松平家松江藩初代藩主・松平直政の次男・[[松平近栄|近栄]]が3万石を分与され立藩した。[[天和 (日本)|天和]]2年(1682年)、近栄は[[越後騒動]]に荷担した罪から知行を半減されたが、[[貞享]]2年(1686年)に5千石、[[元禄]]7年(1694年)1万石を加増されて再び3万石となり、以後10代205年間在封した。[[嘉永]]3年(1850年)、8代・[[松平直寛|直寛]]は幕府公役の勤を評され、[[城主大名|城主格]]となっている。
 
明治4年(1871年)、廃藩置県により広瀬県となり、同年[[松江県]]、[[母里県]]、[[浜田県]]の一部(隠岐地方)と合併して島根県になった。
 
藩主の松平家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)に[[子爵]]を叙爵した。
 
==== 歴代広瀬藩主 ====
;松平〔越前〕家
3万石→1万5千石→2万石→3万石 (1666年 - 1871年)
#[[松平近栄|近栄]] 3万石→1万5千石→2万石→3万石
#[[松平近時|近時]]
#[[松平近朝|近朝]]
#[[松平近明|近明]]
#[[松平近輝|近輝]]
#[[松平近貞 (出雲国広瀬藩主)|近貞]]
#[[松平直義|直義]]
#[[松平直寛|直寛]]
#[[松平直諒|直諒]]
#[[松平直巳|直巳]]
 
=== 母里藩 ===
'''母里藩'''(もりはん)は、松平家時代初期から置かれた松江藩の支藩。江戸時代中期までは'''神戸藩'''(かんべはん)と呼ばれた。能義郡母里(現・[[安来市]]伯太町西母里)の[[母里陣屋]]に藩庁が置かれた。
 
寛文6年(1666年)4月29日、松平家松江藩初代藩主・松平直政の三男・[[松平隆政|隆政]]が1万石を分与され立藩した。この隆政のときは[[蔵米]]支給の[[内分分知]]で、2代・松平直丘時代の[[貞享]]元年(1684年)に所領が確定した。
 
隆政には子がなく、[[延宝]]3年(1673年)に死去した。死に際に弟・[[松平直丘]]を[[末期養子]]に願い出たが認められず、一時廃藩となったが、1か月後に隆政の遺領1万石が直丘に与えられ、相続が認められた。
 
3代・[[松平直員]]は暗愚で、藩政を混乱に陥れている。4代・[[松平直道]]は嗣子がなかったため、家臣の[[平山弾右衛門]]が自身の子を藩主の落胤と称して藩の乗っ取りを企てた。しかし本家松江藩の知るところとなり、弾右衛門は死罪となり、直道の弟・[[松平直行|直行]]が5代藩主となった。この頃になると藩財政は窮乏し、[[石見銀山]]から拝借銀を重ねて自転車操業を繰り返していた。また山間の地である母里藩では農業がうまくいかず、主だった産業や特産物もなかったため、財政再建の策もなかった。
 
藩主は[[参勤交代]]を行わない[[定府]]の大名だった。[[江戸藩邸]]は今のブラジル大使館付近([[港区 (東京都)|港区]][[北青山]]二丁目)にあり、対外的な執務は家老(200石から400石)の小沼氏らが、また国許は国家老市川氏、狩野氏らが政務を執り行っていた。
 
明治2年(1869年)、[[版籍奉還]]により母里藩となった後、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]により母里県となり、同年[[松江県]]、[[広瀬県]]、[[浜田県]]の一部(隠岐地方)と合併して島根県となった。最後の藩主で[[知藩事]]も務めた[[松平直哉]]は、明治17年(1884年)に子爵となっている。
 
*石高:1万石
*実高:9500-1万0500石程度(推計) 17世紀後半には1万5000石という推計もある
*集落:20か村(正保国絵図、郡村誌などより)
*人口;5000-1万0000人程度(1700年初頃=正徳年間、郡村誌、奥野家文書郷土母里、などより推計)
*藩主:越前松平家分家(極冠は従五位、[[帝鑑の間|帝鑑間]]詰)
*菩提寺
**一乗寺 島根県能義郡伯太町井尻1927 浄土宗
**天徳寺 港区虎ノ門
*家紋:丸三九葉三葉葵巴(裏紋は六つ葵・三鐶三九葉三葉葵巴)
 
==== 歴代母里藩主 ====
;松平〔越前〕家
1万石 (1666年 - 1673年、1673年 - 1871年)
#[[松平隆政|隆政]]
#[[松平直丘|直丘]]
#[[松平直員|直員]]
#[[松平直道|直道]]
#[[松平直行|直行]]
#[[松平直暠|直暠]]
#[[松平直方 (母里藩主)|直方]]
#[[松平直興|直興]]
#[[松平直温 (母里藩主)|直温]]
#[[松平直哉|直哉]]
 
=== 松江新田藩 ===
'''松江新田藩'''(まつえしんでんはん)は、江戸時代中期に一時あった、松江藩の[[新田分知]]による支藩。[[元禄]]14年(1701年)、松平家松江藩2代・[[松平綱隆|綱隆]]の五男・[[松平吉透|近憲]]が1万石を分与され立藩した。近憲は[[宝永]]元年([[1704年]])兄で3代松江藩主・[[松平綱近|綱近]]の養子となり、本家を相続して4代・[[松平吉透|吉透]]となったため、所領は松江藩に還付され廃藩となった。
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