「アドルフ・アイヒマン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
60行目:
 
==== プラハ勤務時代 ====
1939年3月、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]]により[[ベーメン・メーレン保護領]]が誕生し、4月に旧チェコスロバキア首都[[プラハ]]へ派遣されることが決まった。当時[[親衛隊大尉]]だったアイヒマンは、ウィーンの移民局の仕事を部下の[[ロルフ・ギュンター]]([[:de:Rolf Günther|Rolf Günther]])や[[アロイス・ブルンナー]]に任せて次なる任地[[プラハ]]へ移動した<ref name="ヒトラーの共犯者下43"/><ref name="アイヒマン調書48">{{harvnb|ラング|小俣 訳|2009|ref=cho|p=48}}</ref>。しかしアイヒマン自身は後に「最初、私はウィーンを離れたくなかった。万事円滑、かつ秩序正しく動いているのであるから(ウィーン勤務を)手放しくないのは当然だった。」と語っている<ref name="ナチス親衛隊251">{{harvnb|グレーバー|滝川 訳|2000|ref=ss|p=251}}</ref>。
 
しかもプラハではアイヒマンはウィーンでの仕事ほど成果を上げられなかった。すでにほとんどの国でユダヤ人の受け入れを拒否するようになっていた上、ベルリンも保護領のユダヤ人追放より[[ライヒ]](ドイツとオーストリア)内のユダヤ人追放を優先したがっていた<ref name="ヒトラーの共犯者下43"/>。しかしプラハ勤務時代はすぐに終わりを迎えた。