「フォーティナイナーズ」の版間の差分

出典追加、加筆、画像変更
m (年代誤記の修正)
(出典追加、加筆、画像変更)
[[テキサス共和国]]は28番目の州となっていた。オレゴン地域(オレンジ色部分の北西側一部)は州制がしかれず、1848年に準州となった。
]]
[[ファイル:ゴールドラッシュPanning on the Mokelumne.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|モークラム川|en|Mokelumne River}}で選鉱パンを使う老用いて砂金を探す([[アラスカ州|アを描いたイラスカ]])]]
 
[[1845年]]3月、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェームズ・ポーク]]が[[アメリカ合衆国大統領]]に選ばれると、彼はその就任演説のなかで、[[メキシコ]]領であった[[ネヴァダ]]、[[カリフォルニア]]、[[ニューメキシコ]]の一帯、そして、独立国([[テキサス共和国]])であったがアメリカ人入植者の数が増加していた[[テキサス]]、さらに[[イギリス]]と共同統治していた北部太平洋岸の「オレゴン・テリトリー」と称される地域(現在の[[オレゴン州]]・[[ワシントン州]]・[[アイダホ州]]にわたる地域)の獲得を訴えた<ref name="iizuka129">[[#飯塚|飯塚(2013)pp.129-131]]</ref>{{refnest|group="注釈"|このような政策ないし政治的主張を支える発言として有名なのが、[[ニューヨーク]]のジャーナリスト、[[ジョン・オサリヴァン]]が『デモクラティック・レヴュー』1845年7月・8月合併号掲載の論説「併合」のなかの、
{{quotation|
}}
という言葉であった<ref name="shimizu149" />。この見解は領土膨張の機運をおおいに高めた<ref name="shimizu149">[[#清水|清水(1999)pp.149-150]]</ref>。
}}
 
英米共同領有地であったオレゴン地域では肥沃な農地や毛皮獣を求めるアメリカ内部からの移住者が増加し、[[1846年]]永年の要求を貫いてイギリスとの間にオレゴン協定を結び、[[北緯49度]]をもってイギリス領[[カナダ]]との国境線を確定させた<ref name="saitoh25">[[#齋藤|齋藤(1976)p.25]]</ref><ref name="yasutake78">[[#安武|安武(1998)pp.78-79]]</ref>{{refnest|group="注釈"|アメリカの北緯49度以南の領有について、イギリスは当初アメリカの要求に応じなかったが、しだいにアメリカの要求はエスカレートし、[[1843年]]には北緯54度40分まで要求する意見さえ出て「54度40分か戦争か」というスローガンさえ唱えられた<ref name="shimizu151">[[#清水|清水(1999)pp.151-152]]</ref>。}}{{refnest|group="注釈"|オレゴン協定締結とともにイギリスでは[[穀物法]]が廃止され、アメリカではウォーカー関税引き下げ法が成立した<ref name="yasutake78" />。これにより、南北戦争直前まで、英米両国間には[[自由貿易]]主義にもとづく協調関係がつづいた<ref name="yasutake78" />。}}。
米墨戦争は、明らかにアメリカ側の挑発によってはじめられた戦争であった<ref name="iizuka129" /><ref name="saruya88" />。ポーク大統領は、[[ウィンフィールド・スコット]]を指揮官とする大軍をメキシコに送り込んだ<ref name="iizuka129" /><ref name="yasutake78" />。スコット将軍は[[1847年]]9月に[[メキシコシティ]]を陥落させて、この戦争の勝利に貢献した<ref name="saitoh25" /><ref name="saruya88" /><ref name="shimizu154" />。米墨戦争の勝利と、それにつづく1848年2月2日の[[グアダルーペ・イダルゴ条約]]によって、アメリカは、1,825万ドル(1,500万ドルの現金と325万ドルの債務放棄)と引き替えに[[メキシコ割譲地]]を得た<ref name="saitoh25" /><ref name="shimizu154" />。これは、現在の[[カリフォルニア州]]・[[ネバダ州]]・[[ユタ州]]の全域と[[アリゾナ州]]の大部分、および[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]、[[ワイオミング州|ワイオミング]]、[[コロラド州|コロラド]]各州のそれぞれ一部にあたる広大な領域である<ref name="saitoh25" />{{refnest|group="注釈"|結果が上首尾だったことで、当時のほとんどのアメリカ人はこの戦争の原因追及をおこなわなかったが、[[エイブラハム・リンカーン]](当時、下院議員)のほか、1, 2名はポーク大統領の政治姿勢を批判した<ref name="saruya88" />。}}。アメリカはこれにより、アジア貿易の拠点たるサンフランスシコを確保した<ref name="yasutake78" />。
 
この頃、メキシコ領カリフォルニアに入植していた[[ドイツ]]生まれの農場主[[ジョン・サッター]]がサッター砦を建設し、[[ニュージャージー州]]生まれの大工[[ジェームズ・マーシャル]]を使用人として用いていた<ref name="shimizu151" /><ref name="iizuka131" />{{refnest|group="注釈"|カリフォルニアは[[靴]]と[[ローソク]]の原料となる[[牛革]]・[[牛脂]]の生産地だったので、東部人のなかにはこれに着目し、移住する者がいた<ref name="shimizu151" />。}}。マーシャルは[[水力]]による製材を考え、[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]東方コロマの{{仮リンク|アメリカン川|en|American River}}に[[水車小屋]]を建設し、サッターの製材所建設計画を助けた<ref name="iizuka131" />。そして、グアダルーペ・イダルゴ条約成立直前の1848年[[1月24日]]、マーシャルはアメリカン川の川底に[[砂金]]を発見したのである<ref name="iizuka131">[[#飯塚|飯塚(2013)pp.131-134]]</ref>。この時期が微妙で、もし金発見がもっと早ければメキシコからの干渉はきわめて厳しいものであったことが予想され、戦争のなりゆきも大きく異なるものとなった可能性がある<ref name="iizuka131" />。マーシャルの報告を聞いたサッターは当初、これを元手にした農業経営拡大を考え、当初は緘口令をしいて秘密にしていたが噂はすぐに広まった<ref name="iizuka131" />。当初、乾燥した岩と砂ばかりの荒蕪地で有用性に欠くという見方さえあった新領土であったが、金発見によって事態が一変したのである<ref name="moriwaki112">[[#森脇|森脇(2014)pp.112-113]]</ref>。サクラメントでの金発見の報告はやがてポーク大統領のもとにも届き、この年の12月、大統領は[[アメリカ連邦議会]]で新天地カリフォルニアでの金発見の事実を正式に発表した<ref name="iizuka131" />。これにより、年が明けた[[1849年]]にはカリフォルニアに金鉱脈目当ての[[山師]]や開拓者、すなわち「'''フォーティナイナー'''(49年者)」が大量に押し寄せることとなった<ref name="saitoh25" /><ref name="iizuka131" /><ref name="moriwaki112" />。空前の「[[ゴールド・ラッシュ]]」が、ここに現れたのである<ref name="saitoh25" /><ref name="iizuka131" /><ref name="takenaka90">[[#竹中|竹中(1998)pp.90-91]]</ref>。
 
== 東部からの3ルート ==
# [[幌馬車]]で陸上を移動
 
でカリフォルニアに到着した。それまで、[[ネイティブ・アメリカン]]以外のカリフォルニア住民は1,000人足らずだったといわれるが、一攫千金を夢見る人の多くが西をめざした<ref name="iizuka131" />。ただし、旅行途中で病死した者も多かったといわれる<ref name="iizuka134">[[#飯塚|飯塚(2013)pp.134-138]]</ref>{{refnest|group="注釈"|ある統計によれば、この時代にカリフォルニアで亡くなった人は12人に1人の割合であったという<ref name="iizuka134" />。これは、病気や事故で旅行中に亡くなった人ばかりでなく、カリフォルニアに着いてから飲酒にふけったり、トラブルから発砲沙汰に発展し、それにより亡くなった人も含んだ数字である<ref name="iizuka134" />。}}。[[1849年]]の一年間だけでも10万に近い人々がカリフォルニアに到来した<ref name="iizuka131" />。当時の記録をみると、[[農民]]、[[労働者]]、[[商人]]、[[乞食]]や[[牧師]]までもがカリフォルニアへなだれ込んだことが記されている{{refnest|group="注釈"|一攫千金を夢みた人々が急増したことによって治安維持が必要になったサンフランシスコでは、無法者を取り締まるために住民による[[自警団]]が1851年と1856年につくられたといわれる<ref name="moriwaki112" />。これは入植に対して警察組織の整備が追いつかないアメリカの辺境地帯における伝統ともいえるが、自警団による保安活動は[[冤罪]]や[[リンチ]]の発生といった危険もはらんでいる<ref name="moriwaki112" />。}}。「[[アメリカン・ドリーム]]」の言葉があるが、その実一攫千金を夢見るアメリカの国民性は、カリフォルニアでの金発見から少なからず影響を受けたと指摘される<ref name="iizuka131" />。
 
== 成功者 ==
== 結果・影響 ==
[[ファイル:San Francisco Harbor April 1850.jpg|thumb|320px|[[1850年]]サンフラシスコの港]]
# フォーティナイナーズの到来は、カリフォルニアが早くも[[1850年]]に[[アメリカ合衆国の地方行政区画|州]]に昇格する原因の一つとなった<ref name="moriwaki112" /><ref name="takenaka90" />。カリフォルニアの人口急増は、州への昇格をめぐって南部と北部の対立に拍車をかけることとなった<ref name="moriwaki112" /><ref name="takenaka90" /><ref name="shimizu162" />。それは半面、当時の自由州15、奴隷州15という上院における南北間のバランスを突き崩す問題だったからである<ref name="moriwaki112" /><ref name="takenaka90" />。カリフォルニアは北部からの移住者が多かったことから、自由州として昇格することを希望した<ref name="moriwaki112" />。しかし、当面は新たな奴隷州昇格の見込みはなかった<ref name="moriwaki112" />。激しい論争の結果、熟達の政治家[[ヘンリー・クレイ]]らを中心にカリフォルニアが[[自由州]]として[[アメリカ合衆国|連邦]]に加入するかわりに、北部諸州にはよりきびしい奴隷逃亡取締法を施行するという「[[1850年の妥協]]」が成立した<ref name="moriwaki112" /><ref name="takenaka90" /><ref name="shimizu162">[[#清水|清水(1999)pp.162-164]]</ref>。この妥協はやがて紛糾の度合いをむしろ増大させ、のちの[[南北戦争]]の伏線となった<ref name="shimizu162" />。
# [[ゴールドラッシュ]]はカリフォルニアから西部各地に飛び火し、[[フロンティア]]ラインは西から東へと進むこととなり、アメリカは大西洋から太平洋にまたがる大陸国家へと変貌し<ref name="moriwaki112" /><ref name="shimizu155">[[#清水|清水(1999)pp.155-156]]</ref>、[[大陸横断鉄道]]の完成を促した<ref name="takenaka90" />。人口数百人だったサンフランシスコは金の搬出港となって活況を呈した<ref name="moriwaki112" />
# フォーティナイナーズは、白人の[[アメリカ合衆国領土の変遷|西漸運動]](東部の大西洋岸から西方地域への拡張・開拓・移住の運動)をいっそう加速し、[[平等]]指向とフロンティア・スピリットを特質とする西部社会の形成に重要な役割を果たしたが、依然として[[ネイティブ・アメリカン]]([[アメリカ・インディアン]])への圧迫はつづき、やがて彼らは以前にも増して追いつめられていった<ref name="mcnab243>[[#マクナブ|マクナブ(2010)pp.243-254]]</ref>{{refnest|group="注釈"|ゴールド・ラッシュ時にカリフォルニアで殺害された先住民は10万人におよぶといわれている<ref name="mcnab243" />。また、[[ショショーニ族]]は1840年代以降の入植者たちが地元の食料資源を食べつくしたため深刻な飢餓にみまわれ、1862年にはバノック族・パイユート族との同盟が成立して西部開拓者に対する軍事行動に発展した<ref name="mcnab243" />。1872年から翌年にかけてはモドック族によるモドック戦争がおこり、これは先住民による最後の戦争となった<ref name="mcnab243" />。}}
 
== 補説 ==
* [[土佐国|土佐]]沖で遭難した[[中浜万次郎]](ジョン万次郎)はアメリカの[[捕鯨船]]に助けられるが[[ハワイ]]経由で東部へ行き、そこで教育を受ける機会を得た<ref name="iizuka134" />。ゴールドラッシュの報を聞いた万次郎は南米大陸南端を経由して半年以上かけてカリフォルニアに着き、そこで金の採掘をおこなって帰国のための旅費をかせいだ<ref name="iizuka134" />。
*[[アメリカンフットボール]]のプロチーム「[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]] 」や競走馬「[[フォーティナイナー]]」の名称はこれにちなむ。また、カリフォルニア州は[[アメリカ合衆国の州の愛称一覧|公式の愛称]]を''Golden States''(黄金の州)としている。これに因んだチームがオークランドに本拠地を置くNBAの[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]である。
*経済学者の[[野口悠紀雄]]は、日本経済の将来について、フォーティナイナーズの失敗とその周囲の成功例を教訓とすべきだとの論を展開したことがあった<ref>[http://thinkers.txt-nifty.com/reading/2009/10/post-731f.html 野口悠紀雄『アメリカ型成功者の物語 ゴールドラッシュとシリコンバレー』] - 三苫民雄「一日一冊」</ref>
 
== 脚注 ==
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[清水忠重]]|year=1999|month=10|chapter=「明白な運命」と南北対立の激化|title=アメリカ史|publisher=山川出版社|series=世界各国史24|isbn=978-4-634-41540-9|ref=清水}}
* {{Cite book|和書|author=[[竹中興慈]]|year=1998|month=4|chapter=第4章 黒人奴隷制度・南北戦争・南部の再建|title=アメリカ合衆国の歴史|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=4-623-02870-4|ref=竹中}}
* {{Cite book|和書|author=[[森脇由美子]]|year=2014|month=4|chapter=第5章 市場革命と領土の拡大|title=大学で学ぶアメリカ史|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4-623-06716-9|ref=森脇}}
* {{Cite book|和書|author=[[安武秀岳]]|year=1998|month=4|chapter=第3章 市場革命の時代|title=アメリカ合衆国の歴史|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=4-623-02870-4|ref=安武}}
* {{Cite book|和書|author=[[クリス・マクナブ]]|tnslator=増井志津代(監訳)・角敦子(訳)|year=2010|month=12|chapter=第5章 西海岸と高原・グレートベースンの部族|title=図説 アメリカ先住民 戦いの歴史|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04653-9|ref=マクナブ}}
 
=== 論文 ===
* {{Citation|和書|author=[[飯塚英一]]|year=2013|month=12|title=十九世紀半ばのアメリカ ―メキシコ戦争とゴールドラッシュ―|publisher=[[帝京大学]]宇都宮キャンパス|journal=帝京大学宇都宮キャンパス研究年報人文編|volume=|issue=19|page=127-142|naid=40019945022|ref=飯塚}}
 
== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[野口悠紀雄]]|year=2009|month=4|title=アメリカ型成功者の物語―ゴールドラッシュとシリコンバレー|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4101256283|ref=野口}}
 
== 関連項目 ==
* [[ゴールドラッシュ]]
* [[1850年の妥協]]
* [[カリフォルニア州]]
 
== 外部リンク ==
*[http://www.gutenberg.org/etext/12764 ''The Forty-Niners'' by Stewart Edward White](英語)
 
{{デフォルトソート:ふおていないなす}}