「マルクス・アエミリウス・スカウルス」の版間の差分

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'''マルクス・アエミリウス・スカウルス'''({{Lang-la|Marcus Aemilius Scaurus}}、紀元前162年 - 紀元前89年{{Sfn|ユグルタ戦争|loc=p.283}})は、[[紀元前115年]]の[[執政官]]であり、[[共和政ローマ]]において最も有能で有力な政治家の1人とされている。彼の頷きはほぼ全世界を支配していたとも言われている<ref>[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]『フォンテイウス弁護』24</ref>
 
==出自==
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スカウルスは[[紀元前123年]]に神祇官に就任したと考えられている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.515}}。「[[クルスス・ホノルム]]」の出発点として、彼はまずヒスパニアで武勲を挙げ{{Sfn|ウィクトル|loc=72}}、[[ルキウス・アウレリウス・オレステス (紀元前126年の執政官)|オレステス]]の[[サルディニア]]反乱鎮圧にも従軍した{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.519}}。恐らく[[紀元前122年]]頃に[[アエディリス|アエディリス・クルリス]]となったが{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.517}}、公の祝祭を開催するよりも法の執行に熱心だったという{{Sfn|ウィクトル|loc=72}}。[[紀元前119年]]には[[プラエトル]]に就任したと考えられており、[[ユグルタ]]の王位継承に反対した{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.526}}。
 
スカウルスは[[紀元前116年]]の執政官選挙に立候補したが、[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・エブルヌス|マクシムス・エブルヌス]]に破れた<ref>[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]『ムレナ弁護演説』36</ref>{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.527}}。
 
===執政官===
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任期中、プラエトル、プブリウス・デキウスが、スカウルスに対して起立して敬意を示さなかったため立腹し、彼の服を破りその椅子を叩き壊すと、彼に係争を裁かせてはならぬと宣言したエピソードも残っている{{Sfn|ウィクトル|loc=72}}。スカウルスは倹約のため食事の種類や量を規制する法を制定している<ref>[[アウルス・ゲッリウス]]『アッティカの夜』2.24.12</ref>。また、[[解放奴隷]]の投票に関する法も提出し、[[リグリア]]人やタウリスキ人に勝利して[[凱旋式]]も挙行している{{Sfn|ウィクトル|loc=72}}。彼の軍規は非常に厳しく、陣地に野生の果実が生えていても、誰一人手を付けるものはいなかったという<ref>[[セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス|フロンティヌス]]『Strategemata』4.3.13</ref>。
 
===プリンケプス・セナトゥス===
彼は前115年の[[ケンソル]]によって、[[プリンケプス]]・セナトゥス([[元老院 (ローマ)|元老院]]筆頭)に指名されている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=pp.531-532}}。死去するまで幾度も指名され続けた。
彼は前115年の[[ケンソル]]によって、[[プリンケプス]]・セナトゥス([[元老院 (ローマ)|元老院]]筆頭)に指名されている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=pp.531-532}}。死去するまで幾度も指名され続けたが、これはケンソル経験者でない者がプリンケプス・セナトゥスに指名された最初の例で{{efn|伝統的にケンソルを最も早く経験した者が指名される}}、このとき経験者であった[[グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前141年の執政官)|カエピオ]]は恐らく死去していたのではないかと考えられている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.533}}。
 
===ユグルタ戦争===
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===その後===
[[紀元前104年]]、元老院の命令により[[オスティア・アンティカ]]の穀物供給担当[[クァエストル]]であった[[ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス|サトゥルニヌス]]と交代した<ref>[[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]『歴史叢書』36.12</ref>。原因はサトゥルニヌスへの嫌がらせ<ref>キケロ『セスティウス弁護』39</ref>、または彼自身の怠惰と言われている。この年、神祇官の[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前122年の執政官)|アヘノバルブス]]が死去したが、そのとき護民官だった[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前96年の執政官)|同名の子]]がこれを継ぐことが出来なかった。腹を立てた彼は神祇官であるスカウルスを儀式の不備で告発したが無罪となった{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.559}}。
紀元前104年、穀物価格が上昇したため、元老院の命令により[[オスティア・アンティカ]]の穀物供給担当[[クァエストル]]と交代した。穀物供給はローマの生命線であり、これは非常に重要な役職で、最も信頼できる人物だけが任命された。スカウルスは政治家としては元老院の保守派貴族のリーダーを長年務めた。
 
またこの年の執政官[[ガイウス・フラウィウス・フィンブリア|フィンブリア]]が任期終了後に告発されたが、スカウルスが弁護して無罪を勝ち取っている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.558}}。
 
==家族==