「坂本龍馬」の版間の差分

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=== 暗殺(殺害) ===
あかさ棚はマヤラマやらわ エルトライトはじ饅頭
{{main|近江屋事件}}
[[ファイル:Tomb of Sakamoto Ryoma center.jpg|thumb|250px|霊山墓地にある龍馬の墓(左側、右は中岡慎太郎の墓)]]
[[後藤象二郎]]の依頼で、[[慶応]]3年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]に山内容堂の書状を持って[[越前]]へ出向き、[[松平春嶽]]の上京を促して三岡八郎([[由利公正]])と会談したあと、[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]に帰京した<ref name="kochi2017">[http://www.kochinews.co.jp/article/73385/ 坂本龍馬暗殺5日前の直筆手紙発見 高知の幕末維新博で公開へ] [[高知新聞]]、2017年1月14日閲覧。</ref>。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し<ref name="kochi2017" />、さらに[[11月10日 (旧暦)|11月10日]]には福井藩士・[[中根雪江]]宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している<ref name="kochi2017" />。
 
[[11月15日 (旧暦)|慶応3年11月15日]](1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた[[河原町通|河原町]]の[[蛸薬師通|蛸薬師]]で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は[[陸援隊]]の[[中岡慎太郎]]や[[土佐藩]]士の[[岡本健三郎]]、画家の[[板倉槐堂|淡海槐堂]]などの訪問を受けている。午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところ、[[十津川郷士]]と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の[[山田藤吉|藤吉]]が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された<ref name="sasaki02">佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)p.209</ref><ref>『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.96</ref>。享年33(満31歳没)。旧暦だが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。
 
当初は[[新選組]]の関与が強く疑われた<ref>菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.303-305</ref>。また、[[海援隊]]士たちは[[紀州藩]]による、[[いろは丸#いろは丸 沈没事件|いろは丸事件]]の報復を疑い、[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]に[[陸奥宗光|陸奥陽之助]]らが紀州藩御用人・[[三浦安|三浦休太郎]]を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている([[天満屋事件]])。慶応4年([[1868年]])4月に[[下総国]][[流山市|流山]]で出頭し捕縛された新選組局長・[[近藤勇]]は、部隊の小監察であった土佐藩士[[谷干城]]の強い主張によって[[斬首]]に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名はまったく出しておらず、斬首の理由としても言及していない<ref>{{Cite web
| title =谷干城遺稿. 上
|author=谷干城
|coauthors=島内登志衛(編者)
| publisher = [[靖献社]]
 
| date =1912
| url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991229
| accessdate = 2018-11-6
}}</ref>。また、新選組に所属していた[[大石鍬次郎]]は龍馬殺害の疑いで捕縛され[[拷問]]の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。
 
[[明治]]3年([[1870年]])、[[箱館戦争]]で降伏し捕虜になった元[[見廻組]]の[[今井信郎]]が、取り調べ最中に、与頭・[[佐々木只三郎]]とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている<ref name="sasaki02"/><ref>松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.186-187など</ref><ref group="注">菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)p.309、1994年の初版時ではやや薩摩藩陰謀説に含みを持たせた構成だったが、2008年の文庫版のあとがきで著者の一人の菊地明はその後の新史料の発見から京都見廻組であると断定している。同書pp.350-351</ref>。その一方で、薩摩藩黒幕説や[[フリーメイソン]]陰謀説までさまざまな異説が生まれ現在まで取り沙汰されている<ref>菊池明『龍馬暗殺 最後の謎』(新人物往来社、2009年)pp.78-121</ref><ref>相川司『龍馬を殺したのは誰か』(河出書房新社、2009年)pp.199-202</ref>。
 
墓所は京都市[[東山区]]の[[京都霊山護国神社]]の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、[[高知県護国神社]]と[[靖国神社]]にも祀られている。
 
== 年譜 ==