「アミガサ事件」の版間の差分

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荒多摩川の名で知られていた[[暴れ川]]の多摩川は、近代以前より下流の住民を氾濫によって苦しめてきた{{Sfn|前川|2002|p=59}}。多摩川氾濫は、[[江戸時代]]の多摩川下流住民にとっての最大の災害であり、種々の歴史書によれば[[1644年]]([[正保]]元年)から[[1867年]]([[慶応]]3年)までの223年間の間に37回の大洪水が記録されている{{Sfn|小塚|1966|pp=4-5}}。これは6年に1度のペースである。また、19世紀初頭に編纂された『[[新編武蔵風土記稿]]』では、[[稲毛領]]の多くが「洪水の患あり」「屢水災あり」「水損の患あり」「水損繁く」「常に水災は多くして」などと記されている{{Sfn|小塚|1966|pp=8-9}}{{Sfn|新編武蔵風土記稿}}。
 
[[明治時代]]には末期を除いて記録的な洪水こそなかったが、小規模なものであれば頻々としてあり、その被害も決して小さいとは言えず{{Sfn|山田|1930|p=239}}、多い時は1年に3回も出水したともいう{{Sfn|川崎市市民広報部広報課|1984|p=25}}。そして[[1907年]](明治40年)や[[1910年]]の[[明治43年の大水害]]は悲惨な被害をもたらした{{Sfn|川崎地域史研究会|1995|p=112}}。[[御幸村 (神奈川県)|御幸村]][[南河原 (川崎市)|南河原]]で堤防が90メートルにわたり決壊し、対岸の[[矢口村]]や[[六郷町 (東京府)|六郷村]]の堤防も決壊、[[大森 (大田区)|大森]]から[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にかけての流域全域が冠水した{{Sfn|川崎地域史研究会|1995|p=112}}。後者の洪水では、上平間の家屋はすべて流されてしまった{{Sfn|小塚|1970|p=230}}。大雨が降るたびに地域住民は[[樽]]で作った台に床のものを上げて洪水に備えたといい、周辺の家屋の多くは、洪水に備えて[[中二階]]が設けられていた{{Sfn|新中原誌刊行会|1977|p=255}}。
 
[[1891年]](明治24年)、[[お雇い外国人]]の[[ヨハニス・デ・レーケ]]が河川改修の準備のために多摩川を調査した{{Sfn|村上ほか|1981|p=230}}。デレーケは報告書の中で、治水対策として堤防の強化などを進言したが、日本政府の財政的事情から、多摩川は放置されてきた{{Sfn|村上ほか|1981|p=230}}。それから20年余りが経過して発生した1907年の洪水は、住民の活動を活発化させるきっかけとなり、同年10月には神奈川・東京の村長や地主ら50名余によって「多摩川河身改修請願」が出された{{Sfn|村上ほか|1981|p=230}}。しかし、当時の[[東京府]](現[[東京都]])と[[神奈川県]]の境が多摩川をはさんで複雑に入り乱れていたこともあり、工事の交渉は滞ってしまった{{Sfn|村上ほか|1981|p=230}}。