「恒世親王」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
| 名 = 恒世親王
| 各国語表記 =
| 家名・爵位 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄皇継称号 = [[淳和天皇]]第一
| 死亡日皇継在位 = [[天長弘仁]]310年[[54118日 (旧暦)|54118日]]([[826823年]][[65931日]])([[享年]]22)即日辞退)
| 称号 =
| 時代 = [[平安時代]]初期
| 全名 = 恒世(つねよ)
| = [[延暦]]24年([[805年]])
| 身位 = 三品・[[親王]]
| 薨去 = [[天長]]3年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[826年]][[6月9日]])
| 敬称 =
| 改名 =
| お印 = <!-- 日本の皇族のみ -->
| 敬称別名 =
| 出生日 = [[延暦]]24年([[805年]])
| 生地諡号 =
| 号 =
| 死亡日 = [[天長]]3年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[826年]][[6月9日]])([[享年]]22)
| 没地戒名 =
| 埋葬日墓所 =
| 官位 = [[品位 (位階)|三品]][[中務卿]]
| 埋葬地 =
| = 父:[[淳和天皇]]、母:[[高志内親王]]
| 配偶者1 =
| 兄弟 = ''恒世親王''、[[氏子内親王]]、有子内親王、[[貞子内親王]]、[[恒貞親王]]、[[基貞親王]]、[[恒統親王]]、[[良貞親王]]、[[淳和天皇#后妃・皇子女|他]]
| 配偶者2 =
| 妻 =
| 子 = =[[正道王]]、女子([[藤原衛]]室)
| 父親 = [[淳和天皇]]
| 特記事項 =
| 母親 = [[高志内親王]]
| 役職 = [[治部省|治部卿]]<br>[[中務省|中務卿]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''恒世親王'''(つねよしんのう)は、[[延暦]]24年([[805年]]) - [[淳和]]3年の第一皇子。母は[[5月1日 (旧暦)贈位|5月1日]]([[826年]][[6月9日]]))は、[[平安時代]]初期の[[皇]][[淳和天皇高志内親王]]の第一皇子。[[官位]]は三品・[[中務省|中務卿]]。
 
== 経歴 ==
祖父・[[桓武天皇]]の在親王末期、[[延暦]]24年当時は「恒世王」[[805年]]に生まれる。その立場は誕生時から複雑なものであった。父親の大伴親王(後の淳和天皇)は、[[桓武天皇]]の皇子であるが[[夫人]]・[[藤原旅子]]所生の子であり、[[皇后]]・[[藤原乙牟漏]]所生の[[平城天皇|平城安殿親王]](後の平城天皇)・[[嵯峨天皇|嵯峨神野親王]]両天皇、いわゆる「后腹」(後親王による皇位継承を目指した桓武嵯峨天皇の方針からす)と比べれば皇位継承から外れる遠い存在であった。だが、桓武天皇は自身の皇子女間の結婚(すなわち異母兄妹の結婚)におる王権強化を目指しており、安殿親王と[[乙牟漏|乙牟漏内親王]][[外戚大宅内親王]]である、神野親王を[[藤原式家高津内親王]]はこの時期停滞、そしており、「腹」の所生で両親王の政治的立場を強化するために平城・嵯峨の同母妹である[[高志内親王]]を同じ式家出身の母親を持つ大伴親王に嫁がと結婚させたと考えられている<ref> [[服藤早苗]]『歴史のなかの皇女たち』([[小学館]]、2002年)p65-69</ref>。ところが、平城・嵯峨両天皇の后(当時の后はそれぞれ[[朝原内大伴親王]]・[[高津内親王]])よりも先に高志内親王が恒世王先に健康な皇男子もうけたことで事態は複雑となった。平城・嵯峨天皇に次いで桓武天皇と朝原・大宅内親王と[[嫡流]]近いは結局子女恒世生まれず、嵯峨天皇と高津内親王ということの間なってしは後に業良親王が生がこ皇子は精神に問題がったらしい既に平城天皇は[[高岳親王]]がおり後に[[嵯峨天皇]]にも正良親王(後の[[仁明天皇]])が誕生するを後継ぎとしたが、[[高岳親王]]は[[伊勢氏]]、正良親王は[[橘氏]]を母に持つため、桓武天皇との親疎では恒世王には劣っていた。このため、恒世王が平城・嵯峨両天皇に次ぐ皇位継承権を持つと考えられるようになり、更に父親在世中に父を飛ばして子を皇位に立てる慣例が存在しないために、恒世王を[[即位]]させるために大伴親王にも皇位継承を認めなければならない事態となったのである。大伴親王はこの事態を憂慮して[[臣籍降下]]を申し出て自己と恒世の皇位継承からの離脱を図るも、平城・嵯峨天皇はこれを認めず、[[薬子の変]]で[[嵯峨天皇]]の[[皇太子]]であった高岳親王が廃されると、恒世王への継承を前提として大伴親王が皇太子とされた。
 
大伴親王は[[弘仁]]14年([[823年]])4月16日に[[即位]]する(淳和天皇)。皇太子には嵯峨上皇の強い叡慮で同月4月18日に当時[[従四位|従四位下]]・[[侍従]]であった恒世王が立てられるが、即日辞退してその日のうちに嵯峨上皇の子である正良親王(仁明天皇)が擁立された。この流れは淳和天皇の強い叡慮が背景にあったとされている。明確な記録は欠くものの、『[[日本後紀]]』の記述よりその際に[[親王宣下]]が行われて三品の位が与えられたと見られている。同年9月28日に[[治部省|治部卿]]、10月21日に中務卿に任じられた。
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**男子:[[正道王]]
**女子:[[藤原衛]]正室
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==