「福田赳夫」の版間の差分

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福田は一方で、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「[[インターアクション・カウンシル]](OBサミット)」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「'''昭和の[[水戸黄門|黄門]]'''」を自認した。後に総理大臣になる[[森喜朗]]や[[小泉純一郎]]は彼の教えを受けた<ref group="注釈">小泉や[[佐藤静雄_(衆議院議員)|佐藤静雄]]の政治人生は、福田の秘書となり、かばん持ちをすることから始まった</ref>。
 
[[1984年]](昭和59年)に[[二階堂擁立構想]]をきっかけにの頓挫があり、福田の発言力が低下した。この際に福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たこともあり、中曽根政権の後継争い([[中曽根裁定|ポスト中曽根]])において安倍晋太郎を押し立てるため[[1986年]](昭和61年)に派閥を安倍晋太郎に譲った。この件が元で[[山口県第1区 (中選挙区)|中選挙区]]で安倍のライバルであった[[田中龍夫]]が引退を決意したとされている。
 
[[リクルート事件]]や消費税導入によって[[竹下内閣]]が総辞職した際には福田を後継の総理・総裁に推す動きがあったが、福田は「こんな重大な時局を担うには、ちょっと若すぎるんじゃないかなぁ(ちなみに当時84歳)」と述べ辞退した。また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、それも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。