「小金牧」の版間の差分

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→‎制定と牧士頭の任命: 大谷氏の論文より
→‎高田台牧: 十余二小学校
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== 高田台牧 ==
高田台牧(たかだだいまき)は柏市高田・西原を含む、主に十余二にあった牧で、西は流山市との境に達していた。柏市西原はY字状の谷津と新田により、西へ半飛び地状に突き出た牧の形を残している。初期には上野牧と一続きで、東は正連寺を経て大堀川支流の地金堀源流を回りこみ、花野井や宿連寺に達していた。上野牧との分割後も大堀川のある篠籠田の谷津をはさんで近接、現[[江戸川台駅]]東の流山市との境で接していた。1879・80年、若柴・大青田・松ヶ崎の各村による合計27町歩以上の官有地の払受けがあり<ref name="east1"/>、これらの地名にも牧跡が含まれる。『東葛飾郡誌』に高田牧ともあり、高田原牧ともいう。『旧事考』には高田台牧ではなく捕込の地名による大青田牧があり、縦横1里、捕駒の地は大青田とあるが、同じ著者の『北総詩誌』<ref name="chiba"/>では高田台牧がある。『日本地誌提要』には記載がない。
 
特に高田台牧では、明治の開墾後、三井組が直接土地を所有し入植者が小作農となる事が多かった。[[三井不動産]]に引き継がれた土地、米軍からの返還後、再び三井所有となった土地が多く、牧ではなかったが、戦後には三井所有となっていた土地もある。2012年6月現在、三井不動産のホームページ<ref>営利関係と制約のため、リンク保留</ref>に「三井不動産と柏の葉エリア」の項目があり、「三井が中心になって始まった開墾入植」「戦後も三井不動産ゆかりの地として」等と題した資料と当記事の地図<ref>出典提示なしの掲載のため、著作権上、書籍ならば、地図を含む当記事の内容を三井不動産が承認したと見なされる。</ref>が掲載されている。
 
他に比べ、小さな牧であったが、かつて[[柏飛行場]]も置かれる程の面積はあった。元から面積に比べ土手が多かった上、多くの土地が飛行場の他、[[大日本帝国陸軍]]の[[高射砲]]陣地設置、[[アメリカ合衆国]]の接収、朝鮮戦争時の再接収、[[冷戦]]期の[[柏通信所]]設置を経て、現[[柏の葉]]一帯の返還が遅れ、他の牧と比べ多くの土手が近年まで残っていた。TXの、残存した土手を結ぶような敷設<ref name="nagare100"/>と周囲の開発で、多くの土手が21世紀に入ってから失われた。陸軍が築いた土塁があり、地形図・現地での判別に注意を要する。
柏の葉庭球場の池が示すように、地下水位が低く、農業用水が不足した場所が多い。
 
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:時雨るや煙草法度の小金原
:永き日や煙草法度の小金原
:母馬が番して呑ます清水かな
 
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2007)</ref>は高田の字古込後を示している。
 
『旧事考』にある大青田牧は、別の捕込、'''新込'''が大青田近くにあった事を示す。大青田はすでに新田であったため、大青田に隣接した十余二伊勢原辺りが該当する。明治期には、十余二南部は高田原と呼ばれていた<ref name="jin"/>。この捕込は、『鎌ヶ谷市計画書』<ref name="kamap"/>収録の寛政期の地図にある2つの捕込のうちの北の捕込と一致する。大青田の北西に馬場の字があり、『牧跡』<ref>掲載地図は低水準は低いが古文書等の掲載資料は有用。地図の水準の根拠は他の脚注参照。</ref>掲載の『小金上野高田台両御牧大凡図』には、十余二伊勢原から十余二西を経て、みどり台となった辺りに高田台新込とあるため、新しいが痕跡が残らなかった捕込に当たる。『小金上野高田台両御牧大凡図』と『鎌ヶ谷市計画書』の地図によると、柏市西原の東、柏市の半飛び地突出部の付け根、みどり台の西、ヨークマートの東付近に相当する{{refnest|group="注釈"|『牧跡』の推定は約1キロメートル東で掲載地図と矛盾、上野牧の一部が十余二の一部である柏市西原になったとする記載があり、公文書を含めた信頼できる資料に反する。}}。白井豊<ref name="shirai"/>は青田新田の字捕込後を示している。『柏市郷土資料室』の推定も同様であるが、迅速測図にも捕込の痕跡はなく、地点までの特定は難しい。『旧事考』の上野牧の捕込としても矛盾はない。
 
前掲『教育史』に、1872年の三井学校設立の場所は、十余二伊勢原(トリゴメ)とあり、上野牧と同様、トリゴメと発音されていた事が示唆される。伊勢原は[[流通経済大学付属柏高等学校]](流経大柏)の北、明治期に三井・市岡が建立に関わった皇大神社に因む地名であるが、十余二の北部一帯を指すため、伊勢原に捕込があったとは言えるが、地名だけでは場所の特定はできない。大隈邸となった三井の事務所と皇大神社も離れており、同じ三井が関わった事を根拠に、神社の近くにトリゴメがあったとする事できない。『教育史』に1879年頃伊勢原中央の地に校舎を建築とあり、移転を示す記述なら、トリゴメは伊勢原の中央ではない。く、跡地は、吉田農場の事務所となったとある。『東葛飾郡誌』<ref>中部町村誌田中村誌教育</ref>に三井小学校は三井尋常小学校と改名した後廃止、十余二尋常小学校を設置、田中村への併合時に田中尋常小学校十余二分教場となったとある。この間の地形図では、現在の柏市立十余二小学校付近以外に学校の記載はなく、同校付近が移転先の伊勢原中央であることを示す。現在の伊勢原一丁目から1キロメートル未満の距離に当たる。
 
=== 地誌 ===