「西園寺禧子」の版間の差分

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歴代皇后と比べてとの評価は根拠に乏しいため、比較表現を削る等
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'''西園寺 禧子'''(さいおんじ きし/さちこ{{efn|「禧」の12世紀ごろの訓読みは「サイハヒ」もしくは「ウク」であり(『[[類聚名義抄]]』)<ref>[[白川静]]『[[字通]]』「禧」からの孫引き</ref>、幼名が「さいこく」である<ref name="tomida-no-sho" />ことからの推測。}})は、第96代[[天皇]]・[[後醍醐天皇]]の[[皇后]]([[中宮]])、のち[[皇太后]]。正式な名乗りは'''藤原 禧子'''(ふじわら の きし/さちこ)。[[女院]]号は初め[[持明院統]](後の[[北朝 (日本)|北朝]])より'''礼成門院'''(れいせいもんいん{{efn|name="reisenmonin"|[[日本史]]研究者の[[森茂暁]]は「礼成」の訓みを「れいせい」とする{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。一方、『[[増鏡]]』「[[宮内庁書陵部]]桂宮本」([[江戸時代]]初期写)では「礼成」に「れいしやう」とふりがなが振られており(つまり訓みは「れいしょう」)、『増鏡通解』([[和田英松]]・[[石川佐久太郎]]校注、1928年)や『増鏡解釈』([[塚本哲三]]校注、1932年)は「礼成」を「らいせい」としている{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。}})と称されるが、のちにそれは廃され、崩御後同日に[[建武政権]](後の[[南朝 (日本)|南朝]])より'''後京極院'''(ごきょうごくいん)の院号を追贈された。皇女に[[伊勢神宮]][[斎宮]]・[[光厳天皇|光厳上皇]]妃の[[懽子内親王]](宣政門院)がいる。
 
確実な生年は不明だが、幼名を「'''さいこく'''」と言い、[[嘉元]]3年([[1305年]])ごろには異母姉で[[亀山天皇|亀山院]](後醍醐の祖父)の寵姫である[[西園寺瑛子|昭訓門院瑛子]]に仕えていたと見られる。[[正和]]2年([[1313年]])秋(7月 - 9月)ごろに[[皇太子]]尊治親王(のちの後醍醐天皇)によって密かに連れ出され、翌年正月に情事が露見して既成事実婚で皇太子妃となる。これは基本的に恋愛結婚と見られ、夫婦の熱愛ぶりは様々な資料に現れている。一方、一国の皇太子として、尊治の求婚には政治的理由もあると考えられている。一つ目には代々[[関東申次]]([[朝廷]]と[[鎌倉幕府]]との折衝役)を務める有力[[公家]]である[[西園寺家]]の高貴な姫君息女との間に世継ぎをもうけることで、甥の[[邦良親王]]の系統に対し、自身の皇統存続を強固にすること。二つ目には、関東申次の権力を通じて、幕府との友好関係強化を図ったことなどが推測されている。しかしこうした理屈を越えて、尊治は心情的にも禧子を溺愛し、しかも年ごとに愛情を深めていった。禧子の側でも温和で誠実な人柄の尊治{{efn|尊治親王([[後醍醐天皇]])は、通俗的には苛烈な性格の暗君とされているが、2010年代以降の建武政権制度史の研究では、これは『[[太平記]]』由来の虚像であるとされている。後醍醐天皇の歴史的実像を知る上での入門書としては、政策面では、日本史史料研究会・[[呉座勇一]]編『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』([[洋泉社]]、2016年){{sfn|日本史史料研究会|呉座|2016}}、人柄の面では[[中井裕子]]「後醍醐天皇」(『室町・戦国天皇列伝』所収、 [[戎光祥出版]]、2020年){{sfn|中井|2020}}などが挙げられる。}}を恋い慕い、二人は私生活でも円満な夫婦となった。
 
尊治が後醍醐天皇として即位した翌年の[[元応]]元年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1319年]][[9月21日]])に[[中宮]]に冊立され、このころ恋歌を得意とする勅撰歌人となる。皇子・皇女に恵まれない夫妻は、[[嘉暦]]元年(1326年)ごろからたびたび安産祈祷を行ったが、時には帝である後醍醐自身が禧子のため祈祷を実践することさえあった。[[元徳]]2年([[1330年]])には、後醍醐は腹心の僧の[[文観|文観房弘真]]に依頼し、禧子に[[真言宗]]最高の神聖な[[灌頂]](授位の儀式)である[[瑜祇灌頂]]を自身とお揃いで受けさせた。後醍醐の法服をまとった肖像画『[[絹本著色後醍醐天皇御像]]』は、この時の様子を描いたものである。こうして禧子は俗界と聖界の双方において同時に日本の頂点に立ったが、これほどの寵遇と地位を天皇から受けた女性は先例がない。しかし、ついに実子に恵まれず、[[元弘の乱]]([[1331年]] - [[1333年]])の時に患った病によって、[[建武の新政]]開始直後の[[元弘]]3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]](1333年[[11月19日]])に崩御した。後醍醐の嘆きは深く、[[臨済宗]]高僧の[[夢窓疎石]]をしばらく宮中に留めて供養を行わせた。2000年前後から、[[室町幕府]]の政策は建武政権の政策を、そして建武政権の政策は鎌倉時代末期の政策を基盤としていることが指摘されており、その時代の後醍醐の治世を中宮として共に歩んだ禧子の歴史的意義は大きい。
 
歴代皇后の中でも稀代の知性・教養・美貌・血統を兼ね備え、大胆で行動的・情熱的な性格をしていた。例えば、宮中の[[左近の桜]]の枝を部下に折らせる禁忌を犯して、わざと後醍醐に自分を捕らえさせ、昼から逢瀬に誘った歌が残る。和歌に優れ、歌人としては『[[続千載和歌集]]』等4つの[[勅撰和歌集]]に計14首、准勅撰和歌集『[[新葉和歌集]]』に1首が入集。禧子の美貌を後醍醐はしばしば「月影」(古語で「月の光」の意)に喩えている。夫婦仲の睦まじさは同時代から著名だった。例えば、[[歴史物語]]『[[増鏡]]』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」の巻名は、「秋の深山」(西園寺家北山邸、のちの[[鹿苑寺|金閣寺]])の「秋の宮」(中宮)、つまり禧子を指し、禧子をこぞって褒めそやす[[西園寺鏱子|永福門院鏱子]](禧子の長姉)と後醍醐の和歌から取られている。『増鏡』巻第16「久米のさら山」では、[[元弘の乱]]前半戦に敗北し意気消沈する夫に[[琵琶]]を届け、夫婦がともに得意とする和歌を贈り合う姿が描かれた。『増鏡』の説話は『[[続千載和歌集]]』や『[[新葉和歌集]]』からも裏付けられる。『[[徒然草]]』では皇后ながら[[有職故実]](古代の朝廷儀礼)を気にかけない自由気ままな性格が記録され、中世の代表的な有職故実学者にして理知的な性格の夫・後醍醐とは好対照を為している。
 
なお、[[軍記物語]]『[[太平記]]』(1370年頃完成)では、後醍醐の側室の一人である[[阿野廉子]]が傾城の悪女と設定された余波を受け、自身の[[上臈]](高級女官)であった廉子に寵を奪われ、後醍醐から嫌悪された不遇の皇后であるかのように描かれた。夫の後醍醐もまた、禧子の安産祈祷を装って幕府調伏の祈祷を行う冷酷な人物であるとされた。しかし、これらの『太平記』の記述は多くの点で他の資料と矛盾している。特に、安産祈祷が幕府調伏の偽装だったとする『太平記』説は、2000年代初頭まで広く信じられていたが、2010年代後半時点で日本史・仏教学・日本文学の各分野の研究者から相次いで否定されている。
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{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}だいしらず<br />'''たのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでや鳥の 驚すらむ'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000021912}}</ref>(大意:通ってきてくれると頼りにさせておきながら、来てくれないあの人を、ただ待つ夜はとてもむなしい。うたた寝をしていても、それを知らないのでしょうか、鶏の鳴き声ではっと目が覚めてしまいました。せっかく、[[小野小町]]になった気分で、恋しいあの人に夢で逢うことだけを頼みにしていたのに…{{efn|[[小野小町]]「うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき」(『[[古今和歌集]]』553)}})|author=中宮|source=『続千載和歌集』恋三・1324}}
 
無論、一国の皇太子である以上、尊治(後醍醐)が禧子を皇太子妃に選んだ理由には、政治的理由もあると推測されている。第一の理由は、皇統継承権の強化である{{sfn|森|2013|loc=§1.1.6 禧子略奪}}{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。俗に[[鎌倉時代]]は武士の時代と言われているが、これは誇張表現であり、実際には[[鎌倉幕府]]は朝廷と日本を二分する国のうちの一つの「封建国家」([[佐藤進一]]説)、あるいは複数存在した強大な[[権門]](特権組織)のうちの「軍事を司る権門」([[黒田俊雄]]説)に過ぎず、[[朝廷]]もまだ強い実力と高度な法体系を確保していた{{sfn|中井|2016|pp=26–27}}。とりわけ後醍醐の父の[[後宇多天皇]]は「末代の英主」と称えられる賢帝だった{{sfn|河内|2007|pp=337, 347}}。当時、天皇家は後宇多・後醍醐らの[[大覚寺統]]と、それに対立する[[持明院統]]という二つの[[皇統]]に分裂しており、[[幕府]]が仲裁者となっていた([[両統迭立]](りょうとうてつりつ))。ところが、後醍醐が尊治親王として皇太子だった当時、大覚寺統の中でさらに、父の後宇多の意向によって、正嫡である[[邦良親王]](尊治の甥)と、それに次ぐ尊治の系統に別れており、尊治が将来天皇位を退位した後は、基本的に邦良の系統に皇位を譲らなければならなかった。
 
かつては、後醍醐の立場を一代限りの中継ぎとする説があった{{sfn|河内|2007|p=347}}。これに対し、[[河内祥輔]]は、一代限りの中継ぎというのは敵対皇統である[[持明院統]]からの中傷表現であり{{sfn|河内|2007|p=347}}、実際には大覚寺統の「准直系」程度の格式を父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]から許されており、条件付きで後醍醐の子も天皇位に就く可能性を認められていたのではないか、という説を唱えている{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。また、父の後宇多と敵対したとする古説とは違い、後醍醐が自身の系統強化を図ったのは、私利私欲からではなく、「末代の英主」である後宇多を尊敬する気持ちから、自分こそが父帝の後継者であると証明し、父の政策を引き継いで遂行したいという想いからだったという{{sfn|河内|2007|pp=337, 347}}。このような、後醍醐から後宇多への敬意は多大であり、後宇多もまた後醍醐に相当な信任を与えていたという説は、[[中井裕子]]も追加の資料を用いて補強している{{sfn|中井|2020}}。
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=== 達智門院との親交 ===
禧子は後醍醐天皇の同母姉の達智門院([[奨子内親王]]、元・[[伊勢神宮]][[斎宮]])とも親交があった{{sfn|安西|1987|p=136}}。禧子の父の[[西園寺実兼]]は[[元亨]]元年([[1321年]])[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]に薨去し、家宝である[[箏]]の一つを達智門院に遺していた{{sfn|安西|1987|p=136}}。薨去後のいつか確実な時期は不明だが、そのときの禧子と達智門院の贈答の和歌が『[[新千載和歌集]]』に入集している{{sfn|安西|1987|p=136}}。
 
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}後西園寺入道前太政大臣申しおきて侍りける琴を、[[懽子内親王|宣政門院]]いまだ一品の宮と申しける比たてまつらせ給ふべきよし達智門院へ申させ給ふとて<br />'''代々をへて すみにし山の 松の風 千とせの声や ゆづりおきけむ'''{{sfn|安西|1987|p=136}}(大意:何代も住んできた山の松の風、その松風のような響きの箏の千年の音を、父は達智門院様へ譲りおいていたということです)|author=後京極院|source=『新千載和歌集』慶賀}}
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{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}嘉暦四年、御着帯の後祭の日、あさがれゐの御き帳に葵のかゝりたりけるを御覧じてよませ給ける<br />'''わが袖に 神はゆるさぬ あふひ草 心のほかに かけて見る哉'''<ref name="shinshui-203">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000028915}}</ref>(大意:私の袖にあふひ草([[フタバアオイ|葵草]])をなんとなく掛けて見て思うのは――そう、『[[源氏物語]]』で、あふひ草を詠んだ和歌に、神にも許されない不義の罪を犯して子ができたことを、悔やむ一首がありましたね{{efn|[[紫式部]]『[[源氏物語]]』「くやしくぞ つみをかしける あふひ草 神の許せる かざしならぬに」(若菜・下)}}。私の場合は逆に、私に何か罪があって、それで、あの人との次の子にあふひ(会う日)を、神様がお許しにならないのだとばかり思っていました。でも、思いもよらず、今度こそ心にかけてあの人との次の子を育てられるのですね)|author=後京極院|source=『新拾遺和歌集』夏・203}}
 
だが、この年も禧子の産はうまくいかなかった{{sfn|河内|2007|p=336}}。新たな皇子・皇女が生まれたという記録はない{{sfn|河内|2007|p=336}}。
 
なお、2000年代初頭までは、[[軍記物語]]『[[太平記]]』の物語に基づき、御産祈祷は幕府調伏の儀式の偽装であり、「聖天供」はいかがわしい呪術でそれを行った後醍醐は異形の天皇である、といった言説が行われることが主流だった。しかしその後2000年代から2010年代にかけて行われた議論により、こうした見方は2010年代後半時点でほぼ否定されている。詳細は''[[#『太平記』]]''を参照。
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[[File:Sakon no Sakura and the Shishinden.jpg|thumb|[[京都]][[紫宸殿]][[左近の桜]]。ある日、禧子は昼間から後醍醐と激しい逢瀬を重ねたくなった。そこで、禁忌を破って左近の桜の枝を部下に手折らせる悪戯をして、わざと後醍醐に自分を捕らえさせ、春の歌を詠んだ(『[[新千載和歌集]]』春下・116および117)。]]
=== 性格・教養 ===
西園寺禧子は、歴代[[皇后]]の中でも最高度の知性・教養・美貌・血統を全て兼ね備えた人であり、しかも既成概念にとらわれない大胆で行動的・情熱的な人物だった。
 
禧子は、俗語的に言えば、世界が自分を中心に回っていると確信している、お姫様型の性格だったと見られる。夫の[[後醍醐天皇]]を昼間から逢瀬に誘うためだけに宮中の桜の枝を折るという禁忌を犯したり(後述)<ref name="shinsenzai-116" /><ref name="shinsenzai-117" />、朝廷儀礼を無視して気ままに食べものを仕入れるなど{{sfn|永積|1995|pp=172–174}}(当時の信仰では朝廷儀礼を破ると天変地異が起こるとされていた{{sfn|中井|2016|pp=27–28}}{{sfn|甲斐|2007|p=30}})、たびたび型破りな行動に出ている。そもそも、[[鎌倉時代]]の[[西園寺家]]嫡流の姫君は、[[外戚]]政治によって正嫡の天皇・上皇に正妃格として嫁ぐ血統であり{{sfn|岩佐|2000|pp=5–7}}(長姉[[西園寺鏱子]](永福門院)は[[後伏見天皇]]中宮で、次姉[[西園寺瑛子|昭訓門院]]は[[亀山天皇|亀山上皇]]の寵姫)、天皇とはいえ嫡流ではない後醍醐よりも気位は高かったと考えられる。また、その気位に相応しい美貌について、後醍醐はしばしば月影(月の光)に喩えて礼賛している(『[[続千載和歌集]]』秋下・459、『[[新葉和歌集]]』雑下・1295{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=243–244}})。
 
後醍醐もまた禧子に振り回されるのを好み、天皇の正妃という地位を考えても並外れた寵愛で禧子に尽くしていた。たとえば、夫妻はよく和歌を贈り合い、贈答歌は3組が勅撰・准勅和歌集に入集している{{efn|『[[新千載和歌集]]』夏・194<ref name="shinsenzai-194" />および195<ref name="shinsenzai-195" />、『新千載和歌集』春下116・117<ref name="shinsenzai-116" /><ref name="shinsenzai-117" />、『[[新葉和歌集]]』雑下・1294および1295{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=243–244}}および『[[増鏡]]』「久米のさら山」{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}}}。後醍醐は、帝王の楽器とされる[[琵琶]]の名手であるが{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}、禧子の和歌(『新千載和歌集』雑中・1895<ref name="shinsenzai-1895" />)を見るに、たびたび禧子のためだけに弾くことがあったようである。また、妃が出産する時に行われる御産祈祷は、莫大な費用がかかるものであるが、後醍醐は皇太子時代から大金を投じて、天皇の中宮や上皇の女院に匹敵する規模で祈祷を行わせている(「御産御祈目録」){{sfn|三浦|2012|pp=524–526}}。鎌倉時代後期での、1回の御産に対する平均祈祷回数は、後醍醐から禧子へが33.3回、[[後伏見天皇|後伏見]]が24.2回、後深草が23回、亀山が20.3回と他の帝を大きく引き離しており{{efn|[[三浦龍昭]]の論文の表(p. 525){{sfn|三浦|2012|p=525}}から計算。}}、さらに[[阿闍梨]](師僧)の資格を持つ後醍醐自身も祈祷を実践した([[#御産祈祷]])。この他、真言宗最高の神聖な儀式である「瑜祇灌頂」を受けさせたり([[#瑜祇灌頂]])、朝廷の女性にとって事実上最高の地位である[[皇太后宮]]に立てたりと<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />、可能な限りのあらゆる最高の位を禧子に与えている。禧子崩御後にも、[[女院]]号(「後京極院」)の没日追贈という、先例がほとんどなかった栄誉で追悼した<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />。
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また、『[[太平記]]』巻4「中宮御歎の事」でも、後醍醐に隠岐国配流の判決が下ると、闇夜に紛れて夫の幽閉先に牛車で駆けつけ、夫と最後の一夜を共に過ごす姿が描かれる<ref name="taiheiki-4-chugu" />([[#上陽白髪人]])。こちらは、逸話そのものが実話かはどうかは不明だが、少なくとも『太平記』の初稿を著した人物([[円観]])は、禧子を行動的・情熱的な人物に描こうとしたことが察せられる。
 
後醍醐天皇が女性の政界進出に肯定的な人物であり、[[建武政権]]および[[南朝 (日本)|南朝]]の政治運営でしばしば女官からの意見を取り入れたことは、(公家勢力の代表からの批判的な文脈ではあるものの)[[北畠顕家]]の『[[北畠顕家上奏文]]』([[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]]))によって知られる{{sfn|亀田|2014|p=171}}。2000年代・2010年代以降の研究では、後醍醐は鎌倉時代末期と建武政権でそれほど大きく統治手法を変えておらず、基本的に鎌倉時代に自身と鎌倉幕府が行ってきた政策の統合発展型であると言われている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}{{sfn|中井|2016|pp=37–41}}。仮にもし、政治分野における男女共同参画を推進する姿勢が、建武政権だけではなく鎌倉時代末期から続くものであったとしたら、世に「聖代」と称えられた鎌倉末期の後醍醐の治世{{sfn|甲斐|2007|pp=30–31}}には、歴朝屈指の知性を持つ皇后で、後醍醐最愛の女性である禧子からの貢献があったとも考えられる。
 
=== 勅撰歌人 ===
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=== 宮の女房 ===
[[天皇]]に仕える「上の女房」に対し、正妃である[[中宮]]に仕える女性のを「宮の女房」と言い、中宮[[宣旨 (役職)|宣旨]]・中宮[[御匣殿別当|御匣殿]]・中宮[[掌侍|内侍]]の三役がその最高幹部である{{sfn|鈴木|2007|pp=46–47}}。これら三役は形式上は朝廷から補任される正式な官職であるが、実態は中宮の実家の私的[[女房]]であり、立后前から中宮個人の側近だった部下のうち3名の腹心が特に抜擢されたものである{{sfn|東海林|2007|pp=16–17}}。
 
* 中宮宣旨:[[二条藤子]]{{sfn|森|2007|p=246}}(1300以前 - 1351)