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== 概要 ==
幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はほとんどないが、[[曾子]]の教えを受け[[儒家]]の道を極めた。その後、各国を遊学したのち、魯の[[穆公 (魯)|穆公]]に仕えた<ref>『[[韓非子]]』難三「魯穆公問於子思曰……」など</ref>
 
子思の学派の著作に『子思子』があったが現存しない<ref name=":0">{{コトバンク}}</ref>。『[[礼記]]』中庸篇(つまり[[四書]]の『[[中庸]]』)は古くから子思の作と伝わっていた<ref>『[[史記]]』孔子世家「子思作中庸」など</ref>。現代では、その中庸篇を含む四篇(中庸篇、表記篇、坊記篇、緇衣篇)が『子思子』から転載したものと推定されている<ref name=":0" />。この推定は[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[沈約]]の説に由来する<ref name=":2">西山尚志「諸子百家はどう展開したか」『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』中国出土資料学会、東方書店、2014年、93頁。ISBN 978-4497214119</ref>。
 
== 思孟学派 ==
『[[史記]]』孟子荀卿列伝などによれば、[[孟子]]は子思の学派から儒学を学んだとされる<ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|史記/卷074}}</ref>。そのことから、儒家内の子思と孟子の学派を'''思孟学派'''と呼ぶことがある<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=近藤浩之;西信康|year=2013|title=先秦~秦漢代 (特集 学界時評)|url=https://doi.org/10.18910/58716|journal=中国研究集刊|volume=|issue=56|page=|pages=9-12|publisher=大阪大学中国学会|DOI=10.18910/58716}}</ref>。『[[荀子]]』非十二子篇では、敵対する思孟学派を非難する際に、「五行」説という邪説を説いた学派として非難している<ref name=":1" /><ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|荀子/非十二子篇}}</ref>。ただし、『荀子』は「五行」説がどのような説かは述べなかった<ref name=":1" />。
 
[[20世紀]]末、新たに発見された出土文献([[馬王堆漢墓|馬王堆帛書]]および[[郭店楚簡]])の『{{仮リンク|五行 (文献)|en|Wuxing (text)|label=五行}}』という文献が、その「五行」説について述べた文献と推定されて、思孟学派が注目されるようになった<ref name=":1" />(内容は「木火土金水」の[[五行説]]とは異なるが、関連を指摘する学者もいる<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|和書|title=術数学の思考 交叉する科学と占術|year=2018|publisher=臨川書店|page=38;42|author=武田時昌|isbn=9784653043751}}(木火土金水の五行説が形成される「思想的基盤」の一つとして)</ref>)。なお、思孟学派に関する出土文献は他にも、郭店楚簡『性自命出』と[[上博楚簡]]『性情論』(どちらも内容が『中庸』や[[性善説]]と類似する)<ref name=":2" />や、郭店楚簡『魯穆公問子思』<ref>{{Cite web|title=楚簡文字解読実習 {{!}} 中国出土文献研究会|url=https://www.shutudo.org/exercise|website=www.shutudo.org|accessdate=2020-12-07}}</ref>や、郭店楚簡『性自命出』と[[上博楚簡]]『性情論』(どちらも内容が『中庸』や[[性善説]]と類似する)などがある<ref name=":2" />
 
== 出典 ==