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'''川口 松太郎'''(かわぐち まつたろう、[[1899年]]([[明治]]32年)[[10月1日]] - [[1985年]]([[昭和]]60年)[[6月9日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[劇作家]]。本名'''松田松一'''とする資料もある<ref>https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E5%8F%A3+%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E-1642802</ref>。[[東京市]][[浅草区]]浅草今戸町(現在の[[東京都]][[台東区]][[今戸]])出身。『鶴八鶴次郎』『明治一代女』などの芸道物のほか、『[[新吾十番勝負]]』などの時代物、映画化され大変な人気を博した『[[愛染かつら]]』をはじめとする現代風俗物で、巧みな筋立てと独自の話術で江戸庶民情緒を描いた[[大衆文学]]で広く読者を獲得した。'''松田昌一'''の名で映画・演劇脚本も手がけ、[[大映]]専務などを務めた。特に、新生[[新派]]の主事として自作小説の脚色や演出にあたり、昭和期の新派に欠くべからざる人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。っ。[[芸術院]]会員。[[文化功労者]]。
 
[[東京市]][[浅草区]]浅草今戸町(現在の[[東京都]][[台東区]][[今戸]])出身。[[台東区立石浜小学校|石浜小学校]]<!-- http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/bungaku/index.htmlなどをみると、今戸小学校ではなく石浜となっていますが。 -->卒業。[[久保田万太郎]]に師事し、講釈師[[悟道軒円玉]]の下で江戸の庶民文学や漢詩を学んだ後、[[大衆文学|大衆文壇]]に登場。その後第1回[[直木賞]]受賞。『鶴八鶴次郎』『明治一代女』などの芸道物のほか、『新吾十番勝負』などの時代物、映画化され大変な人気を博した『[[愛染かつら]]』をはじめとする現代風俗物、さらに自伝的作品など幅広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で江戸庶民情緒を描いて広く読者を獲得した。
 
また脚本・シナリオも多く映画演劇界に活躍。[[大映]]専務などを務めた。特に、新生[[新派]]の主事として自作小説の脚色や演出にあたり、昭和期の新派に欠くべからざる人気作家となった。『鶴八鶴次郎』『明治一代女』をはじめとする作品の多くは新派の代表的演目となった。
 
後妻は[[俳優|女優]]の[[三益愛子]]。三益との子は[[俳優]]の[[川口浩 (俳優)|川口浩]](長男)、[[川口恒]](次男)、川口厚(三男)<ref> {{Cite news |title=訃報:川口厚さん57歳=俳優、元明治座プロデューサー |url=http://mainichi.jp/enta/art/news/20080921k0000m040043000c.html |newspaper=[[毎日新聞|毎日.jp]] |date=2008-09-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080922081348/http://mainichi.jp/enta/art/news/20080921k0000m040043000c.html |archivedate=2008-09-22 |accessdate=2014-06-29 }} ※[[2008年]]9月17日、脳内出血のため57歳で死去。元・俳優、1986年から2004年まで[[明治座]]プロデューサーを務めた。</ref>、元女優で[[陶芸家]]の[[川口晶]](国重晶)(長女)。
 
==来歴・人物生涯と作品==
===生い立ち===
親は誰だかわからず、戸籍では島岡春吉姉よね私生児[[川口竹次郎]]庶子認知入籍とされる<ref name="物語">『物語大正文壇史』65ページ</ref>。貴族の落胤との説もあった<ref name="物語" />。養父の川口竹次郎は大酒飲みの左官職であった<ref name="物語" />。
[[東京市]][[浅草区]]浅草今戸町(現在の[[東京都]][[台東区]][[今戸]])の[[今戸神社|今戸八幡]]境内下に住む、島岡春吉姉よね私生児川口竹次郎庶子認知入籍とされると戸籍にはあり、実の両親誰かは知られていない<ref name="物語">『物語大正文壇史』65ページ</ref>。島岡よねがどういう人物かは分からず、養父の川口竹次郎は大酒飲みの左官職であった<ref name="物語" />。貴族の落胤との説もあり<ref name="物語" />、赤ん坊の頃に養育費を送られた時の奉書があったのを本人は覚えているが関東大震災で焼けてしまった<ref name=omura/>。
 
山谷堀小学校時代の同級生に[[溝口健二]]がいた<ref>日外アソシエーツ現代人物情報</ref>。
 
小学校卒業後、洋服屋や、警察署の給仕、[[1915年]]([[大正]]4年)の夏から約1年間、[[栃木県]][[芳賀郡]]にあった[[祖母井]]郵便局に電信技士として勤務などする。
 
今戸小学校に通い、4年生で中退して洋品屋の丁稚として働くが、義務教育が2年延長されたので山谷堀小学校に入る。山谷堀小学校の同級生に[[溝口健二]]、前田重信(狐泉)がいた<ref name=日外>日外アソシエーツ現代人物情報</ref>。優等生で卒業したが、上の学校には進めず、山谷町の質屋、[[浅草寺|浅草伝法院]]脇の古本の露天商、象潟警察署の給仕などの仕事をし、[[逓信省]]の電信技師の試験を受けて[[埼玉]]や[[栃木]]の電信局にも勤めた<ref name=omura>[[大村彦次郎]]『時代小説盛衰史』筑摩書房 2012年</ref>。[[栃木県]][[芳賀郡]]にあった[[祖母井]]郵便局には1915年から1年間勤めた。この頃から小説を書き始め、今戸に越して来た[[生田蝶介]]の世話で、17歳の時に『[[講談雑誌]]』に「流罪人藤助」を掲載され文壇デビューを果たす<ref name=日外/>。この生田の勉強会では前田とともに[[岩田専太郎]]とも親しくなり、[[博文館]]系の雑誌に新講談、探偵実話、コマ絵小説などに岩田の挿絵を添えて持ち込んで、原稿料を稼いだ。
1915年、[[久保田万太郎]]に師事する<ref>日外アソシエーツ現代人物情報</ref>。[[1915年]][[小山内薫]]門下の脚本研究会員。17歳の時に「流罪人藤助」で文壇デビューを果たす<ref>日外アソシエーツ現代人物情報</ref>。1919年から、講談師の[[悟道軒円玉]]の家に住み込んでその口述筆記を手伝い、漢詩や江戸文学の素養も積んだ<ref>日外アソシエーツ現代人物情報</ref>。
 
===人気作家となる===
[[1923年]](大正12年)の関東大震災の後、大阪の[[プラトン社]]に勤め、[[直木三十五]]と共に働き、『苦楽』の編集に当たる。1926年(大正15年)に帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆<ref>日外アソシエーツ現代人物情報</ref>。
19歳の時に養父が亡くなり、養母も実家に帰り、天涯孤独の身となる。[[麹町]][[平河天満宮|平河天神]]境内の借間に住み、その後『文藝倶楽部』編集長の森暁紅の紹介で、[[深川区|深川]]の講談師で速記講談の売れっ子だった[[悟道軒円玉]]の家に住み込んでその口述筆記を手伝い、漢詩や江戸文学の素養も積んだ<ref name=日外/>。また円玉の紹介で[[久保田万太郎]]に師事し、また久保田の紹介で[[小山内薫]]の脚本研究会に参加、[[やまと新聞]]の記者などを勤める。1922年に[[坪内逍遥]]らが選者となって[[帝国劇場]]創立10周年記念の戯曲募集があり、松太郎の応募した「出獄」が、[[永井龍男]]らとともに入選した<ref name=omura/>。
 
[[File:Aizen katsura (1938) 1.jpg|thumb|映画『愛染かつら』(1938)の上原謙と田中絹代]]
劇団新生新派主事[[1938年]]([[昭和]]12年)、[[大映]]製作担当専務[[1947年]]([[昭和]]21年)、同取締役[[1960年]](昭和35年)、[[明治座]]取締役制作部長、浪花楽天地監査役。
[[1923年]](大正12年)の関東大震災の後、小山内の薦めで大阪の[[プラトン社]]に岩田とともに勤め、[[直木三十五]]と共に働き、『苦楽』の編集に当たる。1926年に帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆<ref name=日外/>。1930年頃からは『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆し、1931-32年連載の「女優情艶史」は評判が高く、次いで時代物の「湯檜曾の平太郎」「萩寺長七」などを執筆。1934年に『[[オール讀物]]』に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの「鶴八鶴次郎」の評判が良く、1935年から老舗の料理屋をめぐる人情話「風流深川唄」を連載。この年の第1回[[直木賞]]で、当時[[菊池寛]]と親しかった『[[日の出 (雑誌)|日の出]]』編集者の和田芳恵、『講談倶楽部』編集者萱原宏一などの推薦で受賞。続いて執筆した『愛染かつら』は身分違いの男女の恋愛とすれ違いの展開で、当時のベストセラーとなり、[[田中絹代]]・[[上原謙]]の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となった。
 
1940年に[[新派|劇団新生新派]]主事となり演劇界で活躍<ref>『人情馬鹿物語』講談社 1995年([[磯貝勝太郎]]「人と作品」)</ref>。また戦後の1947年に[[大映]]製作担当専務、監査役となり、映画界にも貢献。この年『[[日本小説]]』創刊号では、[[和田芳恵]]の依頼で關伊之助のペンネームで書いた現代ものの中編小説「裸婦」も評判となった<ref name=eiga>大村彦次郎『文壇栄華物語』筑摩書房 2009年</ref>。1949年に直木賞が再開されると選考委員となる。
[[1935年]](昭和10年)、『鶴八鶴次郎』などで第1回[[直木三十五賞|直木賞]]を受賞。代表作の『[[愛染かつら]]』(1937~1938)は、[[1938年]](昭和13年)に映画化され、[[田中絹代]]・[[上原謙]]の主演で人気を博した。
 
===晩年の活動===
[[1964年]](昭和39年)、[[文京区]]小石川水道町(現在の[[春日 (文京区)|春日]])へ移住、ここから亡くなるまで約20年間暮らすこととなる。[[1966年]](昭和41年)、日本芸術院会員(第三部・演劇)。[[1973年]](昭和48年)、[[文化功労者]]。
数多くの時代小説や恋愛小説などを書き、時代小説では『新吾十番勝負』『皇女和宮』『女人武蔵』、現代ものでは銀座の女達を描く『夜の蝶』、京都の映画業界と色街を題材にした『古都憂愁』、長編自伝小説『破れかぶれ』などが代表作。妻の死後『愛子いとしや』を上梓して話題となった。『新吾十番勝負』のあとがきでは「私は自分をストオリイテラーだと思っている。王朝時代には『語りべ』という職業があったと聞くが、私はその『語りべ』になりたい」と述べている。『しぐれ茶屋おりく』は[[2007年]](平成19年)、[[ロイヤル・タイラー]]によって英訳が刊行された。
 
数多くの時代小説のほか恋愛小説などを多く書いた。『鶴八鶴次郎』『明治一代女』のほかには、『新吾十番勝負』などが代表作。妻の死後『愛子いとしや』を上梓して話題となった。『しぐれ茶屋おりく』は[[2007年]](平成19年)、[[ロイヤル・タイラー]]によって英訳が刊行された。[[筒井康隆]]の小説『[[大いなる助走]]』の鰊口冗太郎のモデルである。[[東京都]][[文京区]]春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション“川口アパートメント”は現存。[[1952年]](昭和27年)から[[1959年]](昭和34年)まで[[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本大会]]、[[1956年]](昭和31年)から1959年まで[[ミス・ワールド]]日本大会の審査委員長も務めた<ref name="weekly_sankei">{{Cite journal|和書|title=幸福であれ美女たち|date=1959-08-25|publisher=産業経済新聞社|journal=[[SPA!|週刊サンケイ]]|volume=8|issue=37|pages=7}}</ref><ref name="sankei_2">{{Cite journal|和書|title=優勝者と落選者|date=1959-07-10|publisher=産業経済新聞社|journal=週刊サンケイ|volume=8|issue=29|pages=10}}</ref>。
東宝のプロデューサー[[池野満]]の企画により<ref>[[千谷道雄]]『幸三郎三国志』(文藝春秋)P.27</ref>、1960年には劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、[[中野実]]、[[北條秀司]]、[[菊田一夫]]で「劇作家四人の会」を結成<ref>北條秀司『演劇太平記(3)』(毎日新聞社)P.193</ref>。
 
[[1960年]]に[[明治座]]取締役制作部長、浪花楽天地監査役。東宝のプロデューサー[[池野満]]の企画により<ref>[[千谷道雄]]『幸三郎三国志』(文藝春秋)P.27</ref>、1960年には劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、[[中野実]]、[[北條秀司]]、[[菊田一夫]]で「劇作家四人の会」を結成<ref>北條秀司『演劇太平記(3)』(毎日新聞社)P.193</ref>。[[1964年]]、[[文京区]]小石川水道町(現在の[[春日 (文京区)|春日]])へ移住、ここから亡くなるまで約20年間暮らすこととなる。[[1966年]](昭和41年)、日本芸術院会員(第三部・演劇)。[[1973年]](昭和48年)、[[文化功労者]]
数多くの時代小説のほか恋愛小説などを多く書いた。『鶴八鶴次郎』『明治一代女』のほかには、『新吾十番勝負』などが代表作。妻の死後『愛子いとしや』を上梓して話題となった。『しぐれ茶屋おりく』は[[2007年]](平成19年)、[[ロイヤル・タイラー]]によって英訳が刊行された。[[筒井康隆]]の小説『[[大いなる助走]]』の鰊口冗太郎のモデルである。[[東京都]][[文京区]]春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション“川口アパートメント”は現存。[[1952年]](昭和27年)から[[1959年]](昭和34年)まで[[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本大会]]、[[1956年]](昭和31年)から1959年まで[[ミス・ワールド]]日本大会の審査委員長も務めた<ref name="weekly_sankei">{{Cite journal|和書|title=幸福であれ美女たち|date=1959-08-25|publisher=産業経済新聞社|journal=[[SPA!|週刊サンケイ]]|volume=8|issue=37|pages=7}}</ref><ref name="sankei_2">{{Cite journal|和書|title=優勝者と落選者|date=1959-07-10|publisher=産業経済新聞社|journal=週刊サンケイ|volume=8|issue=29|pages=10}}</ref>。
 
[[1982年]](昭和57年)[[1月18日]]、後妻・三益愛子に[[膵臓癌]]により71歳で先立たれる不幸に見舞われる。その頃から体調を崩して入退院を繰り返し、三益の死から3年後の1985年(昭和60年)[[6月9日]]、[[肺炎]]により[[東京女子医科大学病院]]にて死去。[[享年]]85歳<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/ka/kawaguchimatsutaro.html 文学者掃苔録 川口松太郎(1899-1985)]</ref>。没後、晩年の傑作『一休さんの門』の続編『一休さんの道』約千枚の原稿が発見され、新聞に連載された。のちに[[浅草寺|浅草観音堂]]東の三社境内に、「生きるということむずかしき夜寒かな」という句碑が建てられた<ref>大村彦次郎『文士のいる風景』筑摩書房 2006年</ref>。春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション“川口アパートメント”は現存。[[筒井康隆]]の小説『[[大いなる助走]]』の鰊口冗太郎のモデルである
 
==受賞歴==
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*『蘇州の夜』矢貴書店、1941 ゆまに書房(復刻版「帝国」戦争と文学) 2005
*『幕末十剣士』蒼生社 1941
*『[[愛染かつら]]』矢貴書店 19421942(『[[婦人倶楽部]]』1937年1月-1938年5月)
*『国民花』矢貴書店 1942
*『老春』小峰書店 1943
*『アッツ玉砕』非凡閣 1944
*『芸道一代男』矢貴書店 1946
*『蛇姫様』矢貴書店出版部 19461946(『[[東京日日新聞]]』1939年10月8日-1940年7月11日) のち春陽文庫
*『女』矢貴書店 1947
*『明治美人館』矢貴書店 1947
*『川口松太郎新選集』全3巻 矢貴書店 1947-48
*『恋愛ごっこ』矢貴書店 1948
*『愛する権利』矢貴書店 1948
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*『[[雨月物語]]』桃源社 1954
*『獅子丸一平』毎日新聞社 1955-56
*『人情馬鹿物語』新潮社 19551955(『[[小説新潮]]』1954年1-12月) のち講談社文庫 論創社、2009 
*『花真珠』桃源社 1955
*『振袖御殿』桃源社 1955
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*『うた姫[[静御前|静]]』桃源社 1956
*『[[楊貴妃]]』河出新書 1956
*『新吾十番勝負』全4巻 新潮社 1957-591957-59(『[[朝日新聞]]』1957年5月18日-1959年6月24日) のち新潮文庫、嶋中文庫
*『顔と心』大日本雄弁会講談社 1957
*『夜の蝶』大日本雄弁会講談社 1957
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*『[[古都憂愁]]』桃源社 1965
*『役者 小説[[花柳章太郎]]』新潮社 1966
*『'''川口松太郎全集'''』全16巻 講談社 1967-69
*『商魂さん』桃源社 1967
*『[[日蓮]]』講談社 1967
*『悪源太郎』新潮社 1967(『[[読売新聞]]』1966年2月11日-1967年6月20日) のち徳間文庫
*『窯ぐれ女』毎日新聞社 1968
*『しぐれ茶屋おりく』講談社 1969 のち中公文庫
148 ⟶ 142行目:
*『三人オバン』文藝春秋 1986
*『一休さんの道』読売新聞社 1986 のち講談社文庫
 
===作品集===
*『川口松太郎新選集』全3巻 矢貴書店 1947-481947-48
*『'''川口松太郎全集'''』全16巻 講談社 1967-69
*『川口松太郎句集』竹頭社 1987
*『川口松太郎戯曲選』(私家版 川口一族)1991
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==映画化==
*『[[愛染かつら]]』『[[新吾十番勝負]]』については各項を参照。
*夜の門(1948年 監督:[[木村恵吾]])
*『蛇姫様』
*くちづけ(1957年 監督:[[増村保造]])
**『蛇姫様』東宝 1940年、監督[[衣笠貞之助]]、出演[[長谷川一夫]]、[[山田五十鈴]]
*[[古都憂愁]] 姉いもうと(1967年 監督:[[三隅研次]])
**『蛇姫道中』大映 1950年、監督[[木村恵吾]]、出演長谷川一夫、山田五十鈴
**『蛇姫様』東映 1954年、監督[[河野寿一]]、出演[[東千代之介]]
**『蛇姫様』大映 1959年、監督[[渡辺邦男]]、出演[[市川雷蔵]]、[[嵯峨美智子]]
**『新蛇姫様 お島千太郎』東映 1965年、監督[[沢島忠]]、出演[[美空ひばり]]、[[林与一]]
*夜の門(1948』1948年 監督:[[木村恵吾]]
*くちづけ(1957』1957年 監督:[[増村保造]]
*[[古都憂愁]] 姉いもうと(1967』1967年 監督:[[三隅研次]]
 
== 注 ==
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== 参考文献 ==
*[[興津要]]『大衆文学の映像』桜楓社 1967年(『愛染かつら』『新吾十番勝負』『蛇姫様』について)
*「人情話松太郎」 [[高峰秀子]] 『人情話松太郎』潮出版社 1985 文春文庫、ちくま文庫
* [[若城希伊子]]『空よりの声 私の川口松太郎」 [[若城希伊子]] 文藝春秋 1988
 
== 索引 ==
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