「祥雲寺 (渋谷区)」の版間の差分

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+江戸名所図会
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|緯度度 = 35|緯度分 = 38|緯度秒 = 59
|経度度 = 139|経度分 = 43 |経度秒 = 7
| 山号 = 瑞泉山{{sfnref|江戸名所図会}}
| 宗旨 = [[臨済宗]]
| 宗派 = [[大徳寺]]派
| 寺格 = [[筑前国|筑前]][[福岡藩]]、[[黒田氏]][[菩提寺]]
| 本尊 = [[釈迦如来]]{{sfn|江戸名所図会}}
| 創建年 = [[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])
| 開山 = [[竜岳宗劉]]{{sfn|江戸名所図会}}
| 開基 = [[黒田忠之]]
| 正式名 = 瑞泉山 祥雲寺
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=== 移転 ===
[[寛永]]6年([[1629年]])8月、麻布市兵衛町に新地を拝領し移転、瑞泉山祥雲寺と改称した。[[明暦]]2年([[1656年]])2月28日、麻布市兵衛町[[畠山氏|畠山家]]屋敷(現[[六本木]]三丁目4番地)隣に抱え地を求めており、これが旧地ともいうが定かではない<ref name=j>『寺社書上』</ref>。また、『[[寛政呈譜]]』[[今大路正紹]]条には寛永6年同家が拝領した屋敷を瑞泉山祥雲寺としたとあり、移転には幕府医官今小路家(曲直瀬家)が深く関わっていたと考えられる<ref name=s></ref>。
 
竜岳以来歴代の住職は京都大徳寺に住していたが、寛文7年([[1667年]])からは塔頭景徳院及び霊泉院から各年輪番で務めることとなった<ref name=j></ref>。
 
[[寛文]]8年([[1668年]])大火で類焼し、郊外下渋谷村の現在地へ移転した。周囲は概ね武家地であったが、門外には麻布宮村町代地町が起立した。
 
=== 近代以降 ===
[[明治]]元年([[1868年]])[[上野戦争]]が勃発すると、[[幕府陸軍]]奥詰銃隊はこれに呼応して祥雲寺に参集したが、5月15日の[[彰義隊]]撃滅に伴い、翌日[[日向国|日向]][[佐土原藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]兵が到着した頃には撤収しており、戦火を免れた<ref name=s></ref>。
 
住所としては[[豊多摩郡]][[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]大字下渋谷に属し、境内がそのまま字新地を構成した。明治10年([[1877年]])、祥雲寺持畑地に臨川小学校が起立、翌年校舎を構えて独立した<ref name=ss>『新修渋谷区史』</ref>。
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祥雲寺は[[筑前国|筑前]]松平[[黒田氏|黒田家]]([[徳川氏|徳川家]]と姻戚になった事により松平家の家名を与えられる)の菩提寺であり、歴代徳川将軍に単独謁見できる[[独札]]の格式が与えられ、かつ丁度[[目黒 (東京都)|目黒]]方面へ向かう江戸市街の出口に立地していたため、将軍や世継の[[鷹狩]]としての休養の際、多くの来訪を受けた。7代目藩主・[[黒田治之]]以降松平黒田家は事実上の徳川家一門となり、以降もより多くの将軍家の家族が訪れた。[[御三卿]][[一橋家]]歴代当主の来訪は特に多く、徳川家と黒田家の縁を物語る。
 
以下の来訪が寺の記録に残されている<ref name=j></ref>。
 
* [[寛文]][[延宝]]頃 - 厳有院様([[徳川家綱]])5回
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[[慶安]]2年([[1649年]])麻布日ヶ窪([[六本木]]五・六丁目)に創建。開山愚渓宗智は祥雲寺二世黙翁宗淵の嗣法。寛文8年(1668年)大火に遭い、当寺に移築された。
 
その後東江寺と合寺されたが、明治まで一般的には両寺が併存するが如く扱われていた。両寺の壇家[[武蔵国|武蔵]][[岡部藩]][[安部氏|安部家]]と[[信濃国|信濃]][[信濃飯田藩|飯田藩]][[堀氏|堀家]]への配慮と考えられる<ref name=s></ref>。明治19年(1886年)景徳寺の名称が廃され、東江寺に統一された。
 
=== 妙高山東江寺 ===
山門を入って右手にある。寛文元年([[1661年]])、[[下野国|下野]][[烏山藩]]主・[[堀親昌]]を開基、祥雲寺一世竜岳の嗣法仙渓和尚を開山として、[[那須郡]][[烏山城]]外に建立された。寛文12年([[1672年]])堀家の信濃飯田藩への転封に伴い廃され、後に景徳院内に再建された。その後景徳院と合寺となった。
 
なお、境内の鐘楼銘によれば、初代の鐘楼は[[万治]]4年(1661年)5月に堀親昌が父・[[堀親良]]の25回忌に寄進したものというから、実際の建立年は同年の5月以前となる<ref name=ss></ref>。
 
==== 文化財 ====
* 木造[[聖観音]]坐像 - 渋谷区指定有形文化財<ref name=b></ref>
 
==== 外部リンク ====
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山門を入って左手にある。寛文9年([[1669年]])[[出雲国|出雲]][[広瀬藩]]主・[[松平近栄]]により祥雲寺内に建立された。開山は祥雲寺二世黙翁の嗣法、徳峰宗古。
 
霊泉の名は同院所蔵[[貞享]]3年([[1686年]])徳峰頂相に見え、当初から霊泉院を称しているが、『続[[江戸砂子]]』『改正新編[[江戸志]]』では霊泉院の代わりに隆興院の記載がある。霊泉院を意図して誤ったものか、それとも隆興院という別の塔頭が存在し、霊泉院を遺漏したものかは定かでない<ref name=ss></ref>。
 
昭和には祥雲寺境内は大半が豊分町となっていたが、霊泉院のみ元広尾町に属した。
 
==== 文化財 ====
* 歴代[[頂相]]画15幅、附子順和尚像 - 渋谷区指定有形文化財<ref name=b></ref>
* 木造[[十一面観音]]立像 - 渋谷区指定有形文化財<ref name=b></ref>
 
=== 瑞泉山香林院 ===
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==== 文化財 ====
* 香林院茶室 - 渋谷区指定有形文化財<ref name=b></ref>
* 歴代頂相画12幅、附絶山宗信像 - 渋谷区指定有形文化財<ref name=b></ref>
 
==== 外部リンク ====
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=== 天桂院 ===
[[寛永]]年間、祥雲寺二世黙翁宗淵が隠居し祥雲寺境内に設けた春霄庵が起源とされるが<ref name=j></ref>。しかしながら、『続江戸砂子』『改正新編江戸志』では祥雲寺末寺として天桂院と春霄院が別個に挙げられており、その後天桂院が春霄院を併せたとも考えられるが、不明である<ref name=ss></ref>。維新前後に廃された<ref name=ss></ref>。
 
=== 真常庵 ===
『続江戸砂子』に興常庵、『改正新編江戸志』に真当庵とあるものと同一と思われるが、いずれが正しいか定かではない。
 
[[元禄]]8年([[1695年]])、霊泉院の開山、徳峰宗古により建立された。維新前後に廃された<ref name=ss></ref>。
 
=== 棲玄庵 ===
元禄2年([[1689年]])霊泉院二世功海宗勲により建立された。維新前後に廃された<ref name=ss></ref>。
 
=== 天桂庵 ===
祥雲寺からは離れて広尾一丁目1番39号に位置する。
 
当初は[[本所 (墨田区)|本所]][[柳島]]長寿寺末寺であり、[[寛保]]2年([[1742年]])12月28日香林院末寺となった。[[天明]]7年([[1787年]])香林院東天から弟子妙立尼に付嘱され、[[尼寺]]となった。[[天保]]13年([[1842年]])「下渋谷村明細書」では[[近江国]]高野[[永源寺]]末寺となっている<ref name=ss></ref>。
 
== 墓所 ==
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* 渋谷区『渋谷区史』、1952年
* 渋谷区『新修渋谷区史』中巻、1966年
* {{cite book|和書|title=[[江戸名所図会]]|id={{NDLJP|1174144/30}}|publisher=有朋堂書店|editor=斎藤長秋|volume=2|series=有朋堂文庫|year=1927|chapter=巻之三 天璣之部 広尾祥雲寺|pages=50-51,54|ref={{sfnref|江戸名所図会}}}}
 
== 外部リンク ==