「マハーバリプラム」の版間の差分

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[[4世紀]]から[[9世紀]]にかけて、[[内陸]]の[[カーンチプラム]]には[[パッラヴァ朝]]の[[首都]]がおかれていた<ref name="karashima150">[[#辛島1|辛島(2004)pp.150-153]]</ref>{{refnest|group="注釈"|3世紀末に台頭したパッラヴァ朝もついては、外来民族であるとする説や、{{仮リンク|カダンバ朝|en|Kadamba Dynasty}}同様北インドから来住した政権とみる説もあるが、その出自の詳細については不明である<ref name="karashima150" />。}}。パッラヴァ朝の4世紀から[[5世紀]]にかけては[[マイスール]]方面に興った{{仮リンク|カラブラ朝|en|Kalabhra dynasty}}の勢力下にあったものと考えられ、詳細の不明な点も多いが、[[6世紀]]後半に現れた{{仮リンク|シンハヴィシュヌ|en|Simhavishnu}}王(在位:[[560年]] - 580年)は[[ヒンドゥー教]]信仰を持ち、カラブラ勢力を打ち破って領土を[[カーヴェーリ川]]流域に広げた<ref name="karashima150" />{{refnest|group="注釈"|シンハヴィシュヌの父({{仮リンク|シンハヴァルマン3世|en|Simhavarman III}})と母は、[[ジャイナ教]]の信奉者であった<ref name="karashima150" />。}}。シンハヴィシュヌはさらに、[[パーンディヤ朝]]や[[スリランカ]]([[セイロン島]])の統治者とも争い、その後継者の{{仮リンク|マヘーンドラヴァルマン1世|en|Mahendravarma I}}(在位:580年 - [[630年]])の時代には{{仮リンク|バーダーミ|en|Badami}}の[[前期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]との抗争が始まった<ref name="karashima150" />。
 
カーンチプラムの東65キロメートルに位置し、ベンガル湾に臨むマハーバリプラム(マーマッラプラム)は、6世紀以降、パッラヴァ朝における東西貿易(「[[シルクロード#海のシルクロード|海のシルクロード]]」)の一大拠点として栄え、町には数多くのヒンドゥー教寺院が建立された<ref name="kotobank" />。みずから文人と称したマヘーンドラヴァルマン1世の時代には岩窟寺院に新しい建築様式が生み出されるなど、文化の面で顕著な発展がみられると評される<ref name="karashima150" />。その子{{仮リンク|ナラシンハヴァルマン1世|en|Narasimhavarman I}}(在位:630年 - [[668年]])の治世にはバーダーミのチャールキヤ朝より首都カーンチプラムが攻撃を受けるが、これを撃退して逆にバーダーミを占領した<ref name="karashima150" />。唐僧[[玄奘]]が南インドを旅行したのは、ちょうどこの時期にあたる<ref name="karashima150" />{{refnest|group="注釈"|玄奘がが南インドを旅したのはバーダーミ陥落前であり、彼はカーンチプラムやバーダーミについての記録を残している<ref name="karashima150" />。}}。パッラヴァ朝は[[7世紀]]末にチャールキヤ朝とパーンディヤ朝の挟撃を受けたが、{{仮リンク|ナラシンハヴァルマン2世|en|Narasimha varma II}}(在位:[[700年]] - [[728年]])の代には平和と繁栄を取り戻し、マハーバリプラムの海岸寺院やカーンチプラムの{{仮リンク|カーンチのカイラーサナータ寺院|en|Kanchi Kailasanathar Temple|label=カラーサナータ寺院}}などのヒンドゥー建築、また文学においても水準が高いものが生まれたとされる<ref name="karashima150" />。
 
パッラヴァ朝におけるすぐれた建築様式は[[タミル人|タミル商人]]たちによって、[[スリランカ]](セイロン島)や[[東南アジア]]各地にまで伝えられた一方、軍事的にはパッラヴァ朝と対立した[[デカン高原]]の[[前期チャールキヤ朝]](バーダーミのチャールキヤ朝)の建築、とくに[[パッタダガル]]のヒンドゥー建築にも大きな影響をあたえた。