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'''吐延'''(とえん、{{ピン音|Tŭyán}}、295年? - 329年?)は、[[吐谷渾]]の[[首長]]。
 
== 生涯 ==
[[慕容吐谷渾]]の長として生まれた。[[317年]]、慕容吐谷渾が死去すると、吐延が後を継いだ。
 
その身長は七尺八寸あり、体格は雄偉で、勇気と膂力は人に優れていたことから、[[羌|羌族]]はかれをはばかって、「[[項籍|項羽]]」と呼んだ。才気が高く俗人と交遊せず、[[漢]]の[[劉邦|高祖]]や[[光武帝]]の頃なら[[韓信]]・[[彭越]]・[[呉漢]]・[[鄧禹]]らと[[中原]]を駆け回っていただろうと慷慨していた。しかし性格が残忍で、才智にたのんで下を憐れむことをしなかったので、昂城羌の首長の[[姜聡]]に刺されてしまった。剣が体に刺さったまま、子の[[葉延]]を呼び、将軍の紇抜泥<ref>『[[晋書]]』四夷伝による。『[[宋書]]』鮮卑吐谷渾伝は「大将抜渥」、『[[魏書]]』吐谷渾伝は「大将紇抜埿」とする。</ref>に幼い葉延を補佐するよう後事を託して死去した。享年は35。13年間の統治であった。
 
子は12人おり、長男の葉延が後を継いだ。