「マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス」の版間の差分

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ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯[[カール・アルブレヒト3世・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト|カール・アルブレヒト3世]]の三男エゴン・カール侯子(1819年 - 1865年)と、その妻の伯爵令嬢テレーゼ・フォン・トゥルン=ホーファー・ウント・ヴァルサッシーナ(1815年 - 1893年)の間の第4子、次女として生まれた。結婚前の全名はマリー・エリーザベト・カロリーネ・アンナ・レオポルディーネ・ポリクセネ・カタリーネ・テレーゼ・ライムンデ・ツー・ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト(''Marie Elisabeth Karoline Anna Leopoldine Polyxene Katharine Therese Raimunde zu Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst'')である。高度に文化的な教育を授けられ、6か国語を自由に操った。
 
1875年4月19日にヴェネツィアにおいて、トゥルン・ウント・タクシス侯子アレクサンダー(1851年 - 1939年)と結婚し、間に3人の息子をもうけた<ref name="Schwilke">Heimo Schwilk: ''Rilke und die Frauen.'' München/Berlin 2015. ISBN 9783492970259</REf>。夫はトゥルン・ウント・タクシス侯家の[[ボヘミア]]分家<ref>トゥルン・ウント・タクシス侯[[カール・アンゼルム・フォン・トゥルン・ウント・タクシス|カール・アンゼルム]]の異母弟[[マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス|マックス・ヨーゼフ]]侯子(1769年 - 1831年)が、1808年に母方の親類からボヘミア北部のラウチン及びドブロヴィツェの城と所領を相続したことに始まる分枝。マリーの夫はその嫡曽孫。</ref>の出で、ラウチン(ロウチェニ)と{{仮リンク|ドブロヴィツェ|label=ドブロヴィッツ|en|Dobrovice}}の領主だった。
 
マリーは美術品の収集に熱心だったため、次第に文人・芸術家の間で有名人となり、[[パリ]]で閉鎖的なサロンを営んだ。特に[[ボーデ博物館|カイザー・フリードリヒ博物館]]初代館長{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ボーデ|en|Wilhelm von Bode}}、女優[[エレオノーラ・ドゥーゼ]]、舞踊家[[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]、小説家[[アンナ・ド・ノアイユ]]伯爵夫人、哲学者{{仮リンク|ルドルフ・カスナー|en|Rudolf Kassner}}といった人々と親しかった<ref name="Schwilke" />。