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|著作=『[[宋高僧伝]]』『鷲嶺聖賢録』『[[大宋僧史略]]』
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'''賛寧'''(さんねい、[[919年]] - [[1001年]])は、[[中国]][[北宋]]初の僧であり、仏教史家である。俗姓は高氏。[[呉越]]の[[湖州 (浙江省)|湖州]][[徳清県]]の出身。
 
== 生涯 ==
[[貞明 (五代後梁)|貞明]]5年(919年)に生まれたが、祖先は[[黄河]]流域の[[勃海郡|渤海郡]][[景県|蓨県]]の人であり、[[隋]]末の動乱期に呉興郡徳清県に移住していた家である。
 
[[後唐]]の[[天成 (後唐)|天成]]年間([[926年]] - [[930年]])、賛寧は、[[杭州]]の[[祥符寺]]で出家した。[[934年]]に[[天台山]]に入って[[波羅提木叉|具足戒]]を受けた。[[四分律]]を修めて、三蔵に精通した。その後、[[霊隠寺]]に移り、[[南山律]]を習った。また、[[儒教]]・[[道教]]の二教にも通じていた。
 
文辞にすぐれ、人士と談論すれば、縦横に論を展開した。そのような寧を、人々は「律虎」と称した。呉越の忠懿王[[銭俶]]は、賛寧を監壇兼、両浙僧統に任じ、号を「明義崇文大師」と賜った。
 
[[978年]]、呉越が宋に帰順すると、賛寧は[[阿育王寺]]の舎利塔を奉じて入京し、[[宋 (王朝)|宋]]の[[太宗 (宋)|太宗]]は、慈福殿で謁見し、紫衣を賜り、都の左街[[天寿寺]]に住せしめ、号を「通慧大師」と賜った。[[太平興国]]元年([[976年]])、詔を奉じて『[[大宋僧史略]]』3卷を編纂し、右街副僧録に任じられた。太平興国7年([[982年]])には、浙東に帰郷し、『[[宋高僧伝]]』を撰することを命じられた。それは、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[慧皎]]の『[[高僧伝]]』、[[唐]]の[[道宣]]の『[[続高僧伝]]』の体例に倣い、十科に分類して、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]より北宋朝に至る、533人の伝、130人の附伝を収録する僧伝であった。[[端拱]]元年([[988年]])に完成し、弟子の顕宗・智輪と共に、太宗に献上された。帝は僧録司に命じて[[経典#大蔵経|大蔵経]]に編入して流通せしめた。
 
[[淳化]]元年([[990年]])には、左街講経首座に任ぜられ、史館編修にも充てられた。また、『鷲嶺聖賢録』を撰した。淳化3年([[992年]])、翰林館編修を兼任させられた。[[至道]]2年([[996年]])には、洛京([[洛陽市|洛陽]])の教門事を管轄した。
 
[[真宗 (宋)|真宗]]の[[咸平]]元年([[998年]])、右街僧録となる。咸平3年([[1000年]])に左街に昇進した。咸平4年([[1001年]])に没した。享年83。