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叢雲7 (会話 | 投稿記録)
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== 動機 ==
[[ファイル:Matsudaira Kiyoyasu.jpg|thumb|暗殺された松平清康]]
清康の家臣である[[阿部定吉]]が、親織田氏勢力に加わるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。{{要出典|date=2018年3月|}}このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。
 
後年、風説を流布したのは、後に織田信秀の妹を自分の長男・清定の妻に迎えさせてその縁戚となった[[松平信定]](清康の叔父、[[桜井松平家]])であったとされるが、このときは、出陣していなかった{{Efn|平野明夫はこの出兵を織田ではなく松平信定への出兵とする{{Sfn|平野|2002|pp=281-283}}。また、松平信定が出陣してこなかったのは撤退を目的としており目的を果たしたからだとする{{Sfn|平野|2002|p=300}}。}}。
朝野旧聞裒藁によると清康がまだ安城にいた頃、松平信定が清康の家臣・落合嘉兵衛を咎めたところ、落合の答弁が見事で清康は500貫文加増したという{{Efn|この話の真偽、具体的な状況は分からないものの、清康が一門よりも被官を優遇していた傍証になると平野明夫は指摘している{{Sfn|平野|2002|pp=294-295}}。}}
 
天文6年(1537年)6月に、戦国大名・[[今川氏]]や、[[吉良氏]]の介入があったためか、信定は、岡崎城を退去して、桜井城に戻った。
後年、広忠に許しを乞うた(桜井松平家の直系子孫は、諸侯に一戸が列して、[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]]主などとなる)。
 
== 事件後 ==