「森山崩れ」の版間の差分

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叢雲7 (会話 | 投稿記録)
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本事件にはいくつかの不審な点がある。
 
実行犯阿部正豊の父である阿部定吉の事後処遇であるが、何ら咎められる事もないばかりか、その後は殺された松平清康の息子である広忠の家臣として三河衆の統率を任されている。当時の慣行にしたがえば連座では家中不始末によって[[処刑]]。そうでなくとも何らかの咎めを受けるはずである。
ただし、一説では定吉は息子の凶行に対する責で自害を試みたが、それを広忠が止めたために定吉は広忠に従臣したと説明されている。
(阿部氏の系子孫は、諸侯に二家が列して、[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]主・[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主などとなる)
正豊をその場で成敗殺害した[[植村氏明]]であるが、後年、広忠が同じように[[暗]]された時にも、実行犯である[[岩松八弥]]をその場で成敗している。
二代の主君が暗殺され、それを同一人物が成敗した事を単なる偶然ではないとする説もある。
ただし、そもそも広忠の死因には諸説あり、また「岩松八弥が広忠を襲った」とする説もその顛末には諸説ある。