「トゴン・テムル」の版間の差分

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**子:[[アユルシリダラ]]<ref>『元史』巻114列伝1后妃伝</ref>
*皇后:{{仮リンク|ムナシリ|zh|木纳失里}}(木納失里) - コンギラト部出身。
 
== 俗説 ==
トゴン・テムルは実はコシラの実子ではなく、元が滅ぼした南宋の皇帝であった恭帝・趙㬎(1271年 - 1323年もしくは1322年)がトルコ系の女性との間に儲けた遺児であるという俗説がある。趙㬎が謎の死(殺害されたとも自殺したとも言われる)を遂げた後に民間の間で広まった噂である。この噂は趙㬎の死に関係しているとも言われるが不明。確実な記録として趙㬎は元の公主を妻とし、その間に趙完普という男子(後に仏門に入り、出家)を儲けている。
 
この噂・俗説との関連性が指摘されているのが、元を滅ぼして建国された明王朝の第3代皇帝である永楽帝の出自に関する俗説である。すなわち、永楽帝の生母はトゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、永楽帝の公式の父とされている洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であるというもので、モンゴル側の史料である『[[アルタン・トブチ]]』や『[[蒙古源流]]』に記されている。中国側でも同様の俗説が広まっており、上記のトゴン・テムルは恭帝の遺児であるという俗説と関連付けられているのである。
 
上記の「トゴン・テムルの妃説」の他にも、永楽帝には生母に関する問題が残されている。永楽帝の生母は公式には永楽帝の父・洪武帝の皇后であった[[馬皇后 (洪武帝)|孝慈高皇后馬氏]]とされているが、実際には[[貢女 (高麗)|高麗貢女]]の碽妃だったとする説がある。永楽帝は生母の身分が卑しいことに劣等感を持ち、靖難の変の頃から洪武帝の皇后でった馬氏が母親であると僭称した、とするものである。[[寺田隆信]]によると、永楽帝の生母について「元の順帝の妃説」と「馬皇后説」、「碽妃説」、「達妃説」など、俗説も含めると5説前後に分けられるとする。ただし寺田自身は「今日となっては調査する材料もない」として諸説を紹介するにとどめている。永楽帝の生母が碽妃であるという記述は清王朝の初めに編纂された談遷の『国榷』という書物にある。その中には皇室の儀礼を司る太常寺が編纂した『南京太常寺志』に書いてあったと記されている(但し、『南京太常寺志』は清王朝の初めに喪失したとされ現存していない)。 また、永楽帝は父・洪武帝の実録である『太祖実録』の出来が自身に都合が悪いことがあったらしく気に入らず、3回も編纂し直しを命じている所から見て、自身に都合の悪い記述を永楽帝が改竄している可能性は否定できず、十分に有り得る話である。『太祖実録』の中には、「碽妃は永楽帝が生まれてから5年後に中国に来た」という記述があるが、永楽帝が記述に脚色を加えたり、粉飾を行ったという疑いが濃厚である以上、容易く信頼できない。
 
ちなみに公式に馬氏を生母とする洪武帝の子女は永楽帝の他に、[[朱標]]([[建文帝]]の父)、[[朱樉]]、[[朱棡]]、[[寧国公主]]、[[朱シュク|朱橚]]、安慶公主の6人が記録されているが、寧国公主と安慶公主以外の子女の生母は別にいるという説が唱えられており、永楽帝以外の男子4人にも生母に関して疑義が呈されている。
 
== 脚注 ==
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